私が無駄に過ごした今日は・・・Part 2

 ホント、もうビックリ! オドロキ!!  大感激!!!
 というのは、岩波書店が発行する月刊誌「図書」の7月号に、かの有名な哲学者土屋賢二さんのエッセイが載っていたのである。
 それを読むと、ビックリ! オドロキ!!  大感激!!! 私が日頃思っていること、実行していることと同じことが書かれてあるではないか!!!
 なんと、東大哲学科を卒業し、御茶の水大学教授で、趣味はジャズピアノの演奏という偉くて偉い人と同じだなんて、私もエラーーーーーークなったような気がして、すこぶる愉快である。
 是非、そのエッセイを読んで頂きたい。

買っても読まない本   土屋 賢二

 私の家には買っても読まない本が大量にある。原因は向上心が強いことにある。
 暇ができると書店に行くが、そこで本を手に取ると、たいてい読みたくなる。
「社会人として経済に無関心でいていいのか」
「キリンのことをもっと知るべきだ」
「水洗トイレの仕組みも知らないのは恥ずかしい」
「砂漠に一人取り残されたときのために必要な知識だ」などと思えてくる。立ち読みしているうちに向上心はつのり、何が何でも今すぐ読まなくてはならないと確信して買う。
 有益な本ばかりでは人間が偏ってしまうと思い、息抜き用に娯楽書も買う。教育テレビばかり見ているわけにはいかないのだ。
 向上心に燃えて家に帰ってしばらくすると、二つのことに気づく。
(1)有益な本を全部読破するには三百歳まで生きなくてはならない、
(2)いま自分に必要なのは息抜きだ。
 その日は息抜きのために娯楽書を読み、次の日になると向上心はあとかたもなくなり、行きあたりばったり生活に戻ってしまう。
 有益な本はしばらく身の回りに置いた後、目の届かない本棚にしまって忘れてしまう。その本棚には同じ運命をたどった有益な本がつまっているが、その本棚に入れたからといって捨てたわけではない。いつか読むかしれないし、何よりも、捨てると向上心を放棄してしまうような気がして捨てられないのだ。
 だから書店に入るときは、余命はわずかだと言い聞かせ、向上心を抑えている。それでも読まない本は増えていく。向上心がそれだけ強いのだ。それにしてはいっこうに向上しないのが不思議だ。

 ウン、同感同感。私が6月1日のこのコラム「私が無駄に過ごした日は・・・」を読んでもらうと分かると思うけど・・・・
 エ? 何? ドンパチB級映画愛好者のそう八さんと、哲学者の土屋先生とが同じだなんて、ホントよく言えよねェ・・って。
 そんなこと云われたって、私自身が「同じ」と断言しているんだから、絶対間違いない。ウソじゃないんだって・・・。

『駅』で出会って・・・

 先月NHKTVの音楽番組「SONGS」で、「SONGS BESTセレクションⅢ」が放映、私好みのチューリップに竹内まりや、森山良子にあみんが出演した。うれしくたのしくほのぼのシアワセ感に包まれて聴いてしまった。
 特に竹内まりやは、今年30周年ということで、ファンから好きな曲を投票したもらったところ、1位が「駅」2位が「元気をだして」3位が「人生の扉」だったそうである。3曲とも私の好きな曲だけれど、番組で歌ったのはモチ第1位の『駅』
 30代~40代の女性の共感を呼ぶ『駅』が1位になるのは当然かもしれないが、私のように、いい加減年を取ると『人生の扉』の歌詞

You say it’s alright to be 70
And say still good be 80
But I’ll maybe live over 90

を聴くと、90歳まで生きているとは思っていないものの
「ウーン、・・・だったらいいなァ」と感じてしまう。
 そして、後期高齢者とイヤがれる時代に生きていても、生きてることって素敵なことなんだと思はせるこの曲『人生の扉』が、今では私のBEST1になってしまった。
 6月はジューンブライド。ときめいて華やぐ季節である。でも結婚はゴールであるけれど、ときめいてばかりはいられない。人生のスタートでもある。
 そして目出度く結婚した女性でも、ある日ある時、シチュエーションは違っても、誰もがこの『駅』のようなシーンに遭遇したことがあるに違いない。その切ない想いが投票につながりBEST1になったのであろう。

    作詞・作曲 : 竹内まりや

見覚えのあるレインコート 黄昏の駅で胸が震えた
はやい足取り まぎれもなく 昔愛したあの人なのね

懐かしさの一歩手前で こみあげる苦い思い出に
言葉がとても見つからないわ
あなたがいなくてもこうして 元気で暮らしていることを
さりげなく告げたかったのに・・・
二年の時が変えたものは 彼のまなざしと私のこの髪
それぞれに待つ 人のもとへ 
戻っていくのね 気づきもせづに
ひとつ隣の車両に乗り うつむく横顔を見ていたら
思わず涙あふれてきそう
今になってあなたの気持ち はじめてわかるの 痛いほど
私だけ愛してたことも
ラッシュの人波にのまれて 消えゆく後ろ姿が
やけに哀しく心に残る
改札口を出る頃には 雨もやみかけたこの街に
ありふれた夜がやってくる・・・

 でも、これっきりで幕が降りるのならいいけれど、もう一度出会ったらどうする?
私などは、たちまち駆け寄って、それからああしてこうしてああなって・・・と、まずはめでたし目出度しとなるに違いないけれど・・・。
「ン? そう八さんて、惚れっぽくて振られぽいんじゃなかったの? だから、ああしてこうしてああならず・・・と、まずは残念無念でしょ」
 フン、女性ってなんてリアリスト。この曲を聴いた時ぐらい、ああしてこうしてと素敵な夢に浸ってもいいでしょ。プンプン!!!

チンプンカンのプンプン

 ホント、もうびっくりおどろきがっかりしょんぼり!!!
 先日、わが愛するドンパチ映画の最高峰たる『ランポー 最後の戦場』を見に行った時のことである。
 映画は、無論、我が不死身のヒーローが、ドンドンパチパチ撃ちまくりバッタバッタと敵は倒れるものの、相手の銃弾は、なんたってこちとら不死身ときているから避けて通る。
 我が不死身のヒーローは、おまけに正義の味方。相手は命令されて戦っているだけの単なる兵隊さんだから、本来であれば、その兵隊さんを倒したらその妻や子どもはどうやって暮らしていくだろうとか、美人の妻ならば再婚すればいいけれど、不美人だったら結婚できず可哀想だとか、大いに我がヒーローは悩まねばならぬ。
 しかし幸か不幸か映画は120分で終わらなければならないので、我がヒーローは悩む暇などありゃしない。ドンドンパチパチ撃って撃って撃ちまくり、敵はバッタバッタと倒れて先ずは目出度しめでたし・・・てな訳で映画は終わったものの、問題は私の後のシートに座っている二人の男性の会話。
 私は、映画の始まる10分前に入ったのだけれど、その間二人がペラペラ話している内容が、まるでチンプンカンで、何を話しているのかまったく分からないのである。
「それで××××なら、*****になるし、△△△△でしょ」
「ウン、だって※※※※だし、もう☆☆☆☆☆しているのに、#####だよね」 
 私が分かった単語は、「インテル」と「ソニー」の二つの名詞のみ。後は、全て理解不能なカタカナ語を駆使してチンプンカンプン。
 フンだ!!! 我がニッポン国内でニッポン人がニッポン語で話している内容が分からないなんて、そんなバカな話ってある?
 どうも、コンピューターかインターネットに関することを話しているらしいが、私、パソコンもインターネットも駆使していると自負していたのに茫然自失。私って、まるっきり時代遅れになっているらしい。長生きはしたくないもんだ。
 映画が終わって後を振り向いて見たら、フツーの学生さん。コンピューターオタクでもなさそうである。にこやかに
「すごい映画!!」なんてフツーの会話をしている。でも、あのチンプンカンプン会話がフツーの会話なんて・・・信じられない!!! 
 それに、である。若い女の子達が
「あいつ、ウザイからチャッキョしちゃった。今度イタメルしてやる」とか
「彼ってイケメン。それでニケツして行ってアゲアゲなの」なんて話しているのを聞くと、これまた
「ン?」
 フンだ!!! 我がニッポン国内でニッポン人がニッポン語で話している内容が分からないなんて、そんなバカな話ってある?
 私は、もうチンプンカンプン会話に囲まれてプンプンプンのプン。大いに傷つき怒っている。

私が無駄に過ごした今日は・・・

 『私が無駄に過ごした今日は、昨日 死んだ人が痛切に生きたいと思った一日である』 ドキッ!!!
 これは、先日北九州市小倉区にある浄土真宗本願寺の小倉御坊・永照寺で行われた「引上会報恩会」で頂いた大型マッチに書かれていた文章である。
 そういえば、我がヒーローが撃って撃って撃ちまり、自分には敵の弾が絶対当たらないという「ドンドンパチパチバッタバッタ映画」を見て、いつもスカッと爽やかコカコーラ的気分に浸っているけれど、これって、ひよっとしたら無駄に過ごした時間?
 ウン、そう云えば、私は読書が趣味だったので「後期高齢者」になった時・・・ウーン、「後期高齢者」って政府推奨の言葉だけれど、馴染まないなァ。ヤッパ政府のオエライさんに申し訳ないけれど、言い方を変えて・・・私が老いて悠々の時を持てるようになった時、無駄に過ごすことがないようにと、若い頃から本を買いためていたのである。
 いわく「世界ミステリ全集全18巻(早川書房)」「世界SF全集全35巻(早川書房)」「異色作家短編集全18巻(早川書房)」。
 カタイ本では「漱石文学全集全11巻(集英社)」「谷崎潤一郎新々訳源氏物語全11巻(中央公論社)」「世界教養全集全34巻(平凡社)」「日本の歴史全18巻(集英社)」「叢書 文化の現在(岩波書店)全13巻」。それに極め付きは「世界の文学 ナント全100巻((中央公論社)」
 これ全て、ハードカバーの函入りのブ厚い本である。他に新書版で「メグレ警視シリーズ全49巻(河出書房新社)」文庫本で「日本探偵小説全集全12巻(東京創元社)」
 これって、自慢じゃないけれど、買った時ペラペラと頁をめくっただけで1頁も読んでいない。今、ため息をつきながら数えてみると、全部で318冊。
 それに、である。あまり大きな声で云えないが、リタイヤしてから聴こうと若い時からFMをエアーチェックして、せっせと録りだめしていた60年~80年代のオールデイズやフォーク&ニューミュージックの500本あまりのカセットテープを、後生大事に保管している。 
 私は、広縁でデッキチェアに横たわり、一日中録りだめしていたカッセトテープをBGMで聴きながら、待望の全集モノを片っ端からコオヒイを飲みながら読むというのが、私のあるべき素敵な未来像であった。
 ところが、我が息子達は、早くから
「その頃はテープは劣化しているし、目はかすんで本など沢山読める訳ないから、ムダムダ」と、エラソウな口をきいていたけれど、どうも、息子達は先見の明があったような気がする。
 と、云うのは、今、読んでいるのはミステリィの翻訳ものが多いけれど、カタカナ名前は「登場人物」の欄を何度も見直さなければチンプンカンになるし、4~5日後に続きを読もうとしたら、ストーリイを忘れてしまい10頁くらい前にさかのぼって読み直さなければならぬ。
 それに、若い頃は文庫本なら、わき目もふらず3時間位で最後まで読みとおしていた私が、なんと、今や2時間も読んだら、オシッコに行きたくなったり、うちのカミさんとどうでもいい会話を取り交わしたくなったり、普段は見ないTVを見たくなったりして、最後は
「読むのヤーメタ」となってしまう。それに、私は本屋さんに行くと、つい本を買ってしまうという悪癖があるものだから、机の横にツン読された本の標高は一向に低くならない。
 ホント、私の素敵な未来像はどこに行ったの?
 私が、カタイ本を買ったのは、「後期高齢者」・・・エーット、すみません。訂正させて頂くことにして・・・素敵な老後を迎えたら「知性と教養」にあふれた人間に変身して、若い人から憧れの眼差しで見られようと思って買った訳だけれど、この際、野望は捨てて、カタイ本は永久保存版として本箱に飾っておくしかあるまい。
 エ? 何? 
『私が無駄に過ごした今日は、昨日 死んだ人が痛切に生きたいと思った一日である』でしょ。無駄に過ごさなければ、読めるはずよ・・・って。
 ウーン、そう云われても、スカッと爽やかコカコーラ的気分になるし、無駄も人生に必要なんだと思うけどなァ・・・。
 「だってソウハチさん。無駄な映画ばかり見て読みもしない無駄な本を買って聴きもしない無駄なテープをためこんで、無駄ばっかり・・・」
 だってねェ・・・・。

素敵に百歳 Part2

 昔、むかし、その昔
「お年寄りをいたわりましょう」と云っていたものである。
 しかし、時は移り、我がニッポンの頭脳明晰なオエライさんは、お年寄りのことを、「後期高齢者」というクールな言葉で表現して、頭脳明晰なれど「思いやり欠乏症」にかかっていることがバレてしまった。
 どうも、我がニッポンのオエライさんは、お年寄りを邪魔者扱いにしているらしい。
 戦争で夫を亡くし3人の子供を、多くの多くの多くの・・苦労を背負いながら女手一つで育て上げて生きてきた私の叔母が、百歳のお祝いの席で
「生きてて良かった」と流した美しい涙を、我がニッポンのオエライさんに見て貰いたかったと思う。
 そして、川崎洋さんの詩の最後の一節を、我がニッポンのオエライさんに捧げたいと思う。

老年について   川崎 洋

年をとった美しい森で
生まれて初めて
詩を書いてみたい
そのあとで
渇いているからおいしい
というのではない水を
一口飲みたい
生きてることが
岩の間から
清水が湧いている
というふうであれ
という祈念
肉体の愛についても
たしかに
20代の頃より
熟してきているのでから
決して決して無理でなく
ふいに思うのだが
齢を刻むことが
何かを失っていくというのは
肯定できない

※川崎洋・・・1930年生まれ。詩集「海を思わないとき」(1978年思潮社刊)より。