見上げてごらん夜の星を

 私は「頑張る」という言葉が苦手である。
 私の血液型は「A型」だけれど、どちらかと言うと「どうでもA型」だし、「頑張る」といっても、「いい加減に頑張る」タイプである。
 人生にはまだまだ先があった、あの頃ならともかく、もう70年も人生をやっていたら、ままならぬのが人生と割り切ってしまい
 「頑張れ」などと云われたら
 「ハハーッ」と最敬礼して受けてしまいそうである。
 だから、反対に私が人に
 「頑張って」なんて言っても、もし、相手が頑張っている人だったら
「云われなくっても分かってるよ。余計なお世話・・・」と云われそうだし、
 反対に、頑張る力も失っている人だったら
 「こちらの気持ちも分からずに 何を偉そうに・・・」と叱られそうな気がする。
 だから、「頑張る」という言葉は、時と場合によっては、上から目線の僭越な言葉になりかねないので、「ほどほどの頑張人」である私は、恐れ多くて使うことが出来ない。
 それで、私は病気で見舞いに行った時でも、相手の気持ちに寄り添って
 「ウンウン」と話を聞くだけである。、
 相手の心情を察すると、とても「頑張って・・・」とは云えないのである。

 TVで東北大震災で被災された方々に対する応援コマーシャルがいろいろ出ているけれど、私の好きなコマーシャルはサントリー。
 特に良かったのが「見上げてごらん夜の星を」のシリーズ。
 矢沢永吉や宮沢りえ、萩原健一など多くの歌手がバトンリレーで歌う。ただそれだけでナレーションもなく、最後に「SUNTORY」のロゴが出るシンプルなコマーシャルだけれど、歌い手の気持ちがストレートに伝わって、数多くの「頑張ろう」コマーシャルよりも、訴える力があるように思える。
 でも、TVを見ている私は罹災者でもない。単なる傍観者に過ぎない私が、アレコレ言うのはおこがましい次第だけれど、私は
 「音楽」は、慰めや励ましの言葉より、人の心を動かすことが出来ると思っている。多くのアーチストがTVに出演したり現地で歌ったりして、それで被災された方々の心がひとときでも癒されたら、元気を取り戻すことが出来たら・・・と、思う。
 そして、TVの前の一瞬の笑顔ではなく、俵万智が詠んだような笑顔を浮かべられたら・・・と願うばかりである。

なんでもない会話なんでもない笑顔なんでもないからふるさとが好き

福島哀歌

 我がニッポン国は、世界に冠たるロボット大国と思っていたのに、今頃になってやっとロボットが登場してきた。それもアメリカのロボットだという。ロボット大国が泣けちゃうよ。なんとお粗末なニッポン・・・。
 昔むかし、病気で熱が出たときに「水枕」で頭を冷やしていたけれど、世界に冠たる原子力発電所が「水枕」方式で原子炉を冷やしているのだと、恥ずかしながら初めて知った。
 ばかでかい冷凍冷蔵庫は作れるのに、原子炉は水で冷やすチャチな仕組みになっていたなんて、なんとケチなニッポン・・・。
 津波が来なくても、全ての電力が切れることは起こりうると思うけれど、強大な電気を作り出す原子力発電所に電力がないなんて、なんとナンセンスなニッポン・・・。
 原子力発電所だから、事故が起きた時に備えて、一見宇宙服風の防護服を着て発電所の中に立ち入るのかと思っっていたら、アメリカ製の使い捨ての一見ペラペラ風防護服。
 そして、防護服の隙間をガムテープでふさぎ、長靴を履いて作業をさせていたらしい。
 2度も原爆の被害に合い、放射能は2度とゴメンと云っていたのに、放射能に対する備えがされてないなんて、なんと無謀なニッポン・・・。
 いたる所で募金が呼びかけられ、いたる所に募金箱が置かれているばかりか、世界中からも募金が寄せられているのに、まだ被災者の方々に配られてないみたいである。
 どうも、ニッポン国のオエライさんは、配分方法について悩みに悩み、早く募金を配らなければということまで気が廻らないらしいい。早く被災者の方々に援助の手を、と思って募金に応じているのに、まだ配られていないなんて、なんと情けないニッポン・・・。
 我がニッポン国民は、世界の国からエライと賞賛されているけれど、どうも我がニッポン国は、エライ国ではないみたいな気がする。
 ウーン、これってニッポン国のエライ人達のせい? なんと哀れなニッポン国民・・・。

今なお命ありて・・・

 春、爛漫。桜は、華やかに咲き誇っているけれど、「花より団子」の気持ちは失せて、ただただ桜を見るばかりである。
 詩人 田村俊子は、生きている人の心の中には、亡くなった人も一緒にいるのに、その姿を見ることが出来ないなんて・・・と、つらく切ない心を「風景」という詩に寄せて詠んでいる。
 この深い寂しさと孤独・・・。

風  景     石垣 りん

待つものはこないだろう
こないものを誰が待とう
と言いながら
こないゆえに待っている、
あなたと呼ぶには遠すぎる
もう後姿も見せてはいない人が
水平線の向こうから
潮にようによせてくる
よせてきても
けっして私をぬらさない
はるか下の方の波打際に
もどかしくたゆたうばかり
私は小高い山の中腹で
砂のように乾き
まぶたにかげる
海の景色に明け暮れる。

 全てを失くして、呟いておられた人がいました。
 悲しみを封印することも出来ず、生きているのがつらいと・・・。

 でも、今なお命ありて、そう、生きているんだから・・・。

  ※ 石垣りんーー1920年~2004年。日本興業銀行に勤めながら詩作。掲載の詩は1959年刊行の「私の前にある鍋とお釜と燃える火と」より。「表札など」でH氏賞、他に田村俊子賞なども受賞している。

叫び

  家族や家や職場を失くして・・・これから、どうやって生きていくの?
 頑張って・・・と言うけれど、頑張る力は、どうしたら出てくるの?
 希望を持って・・・と言うけれど、どこに、どんな希望があるの?
  どうぞ、教えて下さい。私に・・・。

嗚呼 3・11

 突然、ポケット一杯の夢を果たすこともなく命を絶たれた方々の無念な思い・・・。
 そして、すべてをなくして呆然と佇む方々の底知れぬ絶望感・・・。
 云うべき言葉もありません。

あのひと  吉原 幸子

あのひとは 生きていました
あのひとは そこにいました
ついきのう ついきのうまで
そこにいて 笑っていました
あのひとは 生きていました
さばのみそ煮 かぼちゃの煮つけ
おいしいね おいしいねと言って
そこにいて 食べていました

 ※ 吉原幸子   1932年~2002年。第1詩集「幼年連禧」で室生犀星受賞。他に 高見順賞、萩原朔太郎賞など受賞。詩の朗読とジャズのセッションなど、他の分野とのコラボレーションを試みた。