盆と正月が一緒に来るのならいいけれど、梅雨と夏が一緒に来た中での選挙運動。雨と汗まみれで頑張ったセンセイ候補の方々お疲れさまでした。
そして、センセイになりそこなってタダの人となった候補の方々、お気の毒さまでした。
でも、アメリカのミステリイ作家ロバート・P・パーカーは、「蒼ざめた王たち」の中で、
「私が見いだしたのは、時たま人生がばらばらに崩れると、もっと良いものに組み立てる機会が生じる、ということだ」
と、云ってますので、きっと流した汗と涙はムダにならないに違いありません。
今度の選挙で、野党の方々が憲法憲法と絶叫していましたが、我がニッポン国のソーリは、アベノミックスをニッポン国中にいきわたらせると宣言。まさか天下のソーリがウソをつくはずはないと信じている私は幸せ気分になりました。
でも、我がニッポン国のソーリが一番やりたい憲法のことは触れなかったでしょ。それって胡散くさいない?という気分にもなりました。
すると、選挙が終わった途端、我がニッポン国のソーリが憲法憲法と云いだしたものだから
「ン?」と思ったけれど、
「君子豹変す」ということわざがあるでしょ、天下のソーリは「君子」だから、コロッと変わってもよいんですね、きっと・・・。
ところで、岩波書店の月刊PR誌「図書」4月号に、高村薫が毎月掲載している「作家的覚書」という頁に
「いつの間にこんな話が・・・」というコラムを書いています。
と、云うのは「集団的自衛権」という大義のもとに、
「エ? そんなことが行われているの?」というお話です。そして「それって異様なことじゃないの・・・」というお話です。
(高村薫が、大型船舶の運航に必要な海技士の免許を持つ民間船員を、予備自衛官にして有事に活用するという防衛省の計画を読んで)
戦後71年、いつか戦場に駆り出される日を覚悟して船乗りになった人などいないはずだ。海技士の1級や2級は合格者も少ない超関門だが、記事によれば元海上自衛官で有資格者の予備自衛官は10名ほどしかおらず、輸送艦も3隻しかないため、民間の船舶と船員をあてにしなければ、戦闘員や装備の海上輸送さえままならないということらしい。これについては全日本海員組合が反発しているというが、ひとたび有事となれば、それこそ非常事態法などによって強制的に民間船舶と船員が徴用されることになるかもしれない。
ひと昔前には想像もできなかった、こんな無謀な計画が現実に防衛庁で練られ、それがさらりと記事になる。テレビなどのメディアはどこも騒がず、こうしてまた一つ、また一つタガが外れてゆくのを止める政治家もいない。たとえば多数の負傷者に即応するだけの外科処置の能力を持たない自衛隊が、戦場へ出てゆくことの異様。そもそも敵地攻撃能力など端から持っていないのに、その可能性が大声で語られる異様。輸送艦が3隻しかないのに、集団的自衛権に地理的制約はないとされる異様。平和な朝のいつもの新聞のすみずみに、異様を異様と感じなくなった時代の異様が覗いている。