今から70年前、終戦の年の1945年3月10日は「東京大空襲」の日である。この日、270機のB29が東京南部の木造家屋が密集した下町に、30万発を超す焼夷弾を2時間半にわたって投下した。
この空襲による犠牲者は推定10万人、罹災者は100万人とされるが、終戦までの約半年で原爆被害者を除き、全国で空襲による犠牲者は20万3千人にのぼるとされている。
我が街北九州市の出身で、当時東大の学生だった宗左近は寄寓していたお寺も火につつまれ、運悪く疎開先から上京してきた母の手を握って突っ走ったものの、自分の手から母の手がずり落ち死なせてしまったと言うむごい経験をしている。
宗左近は炎の中で倒れた母をなぜ救いに行かなかったのか、母を見殺しにして自分はなぜ生きていかれるのかと自分を責め、それから23年後、ようやく母への墓碑「炎える母」という長編詩を書くことが出来たのである。
戦争の経験のない世代が増えて、戦争を実感としてとらえることが難しい時代となっているけれど、宗左近の詩「炎える母」を読むと、戦争の当事者とは兵隊さんだけでなく、私達も同じ立場にあると言うことを諭されたような気がする。、
詩集「炎える母」は、6章313頁からなる長編詩。「走っている その夜14」よりその一部を抜粋する。
炎える母 宗左近
(前略)母よ
走っている
わたしは
走っている
走っていないで
いることができないずるずるずるずる
ずるずるずる
すりぬけてずりおちてすべりさって
いったものは
あれは
あれは
すりぬけることからすりぬけて
ずりおちることからずりおちて
すべりさることからすべりさって
いったあの熱いものは
ぬるぬるとぬるぬるとひたすらぬるぬるとしていた
あれは
わたしの掌のなかの母の掌なのか
母の掌のなかのわたしの掌なのか走っている
(後略)
※ 宗左近――1919年~2006年。詩人・評論家・仏文学者であり翻訳家。「炎える母」は、第6回藤村記念歴程賞を受賞。北九州市立戸畑図書館内に「宗左近記念室」が設けられている。