切なくて クリスマス

 もう、アッというまに今年も、もうすぐTHE END。
 あといくつ寝るとお正月といって指おり数えていた子供の頃、人生にはまだまだ先があると夢見ていた青春のあの頃、時はゆるやかに流れていたけれど、今では「光陰矢の如し」というより「光陰ミサイルの如く」時間が駆け抜けてしまう。
 でも、人生の残り時間をカウントする年齢になっても、街にクリスマスソングが流れ光が溢れてくると、心ウキウキ、何かイイことありそうな気がしてくる。
 私は、クリスマスソング大好き。だから少ないながらもクリスマスソングのテープを6本持っている。その中で一番のお気に入りは「1986年・メリークリスマス」とラベルに書かれた古いプライベートテ-プ。
 ここだけの内緒の話だが、このテープはあの人(個人情報保護条例に基づき氏名は非公開とする)が、自分の好きなクリスマスソングをダビングしてプレゼントしてくれたものである。
 このテープの中で、私が好きな曲は矢沢栄吉の「ラストクリスマスイブ」それに薬師丸ひろ子の「クリスマス・アベニュー」
 実は、映画俳優で好きな男性の俳優はいないが、年相応の好きな女優さんはいっぱいいる。言うまでもなく吉永小百合をトップに、田中裕子、大原玲子、薬師丸ひろ子‥‥以下エンエンと続くが紙面の都合で略‥‥である。となれば、物の順序として薬師丸ひろ子の「クリスマス・アベニュー」 ウン、でも薬師丸ひろ子が好きというだけじゃなくって、曲も素敵。
 今、このテープを聞きながらこの原稿も書いているのだけれど、クリスマスソングには、何故か、山下達郎の「Christmas eve」を初めとして、クリスマスというのに別れを歌った歌が多い。ハッピイクリスマスより、ひとりぼっちのクリスマスと切なさを歌った方が、心に訴えるものが多いのかもしれぬ。
 その中でも、浜田省吾の名曲「Midnight Flight-ひとりぼっちのクリスマスイブ」は、好きだと言えなかったばかりにイブの日に別れた男の歌である。

あの娘乗せた翼 夜空に消えてく
空港の駐車場 もう人影もない
“行くな”と引き止めれば 今頃二人
高速を都心へと 走っていたはず
失くしたものが あまりに大きすぎて 痛みを
感じることさえも 出来ないままさ
ひとりぼっちの クリスマス・イブ
凍えそうな サイレント・ナイト
ここからどこへ行こう もう何も見えない空の下

 こんな曲を、降る雪を眺めながら、しみじみと聴くのもいいけれど、でも、この歌のように打ち明けられなかったばかりに別れを迎えてしまった人は、この曲を聴くときっと涙するにちがいないであろう。
 でも、人生、出会いと別れの連続だから、きっと二人っきりのクリスマスに出会うことを信じて、そう、今年もあと僅か。忘れてしまいたいことは、忘年会できれいさっぱりと流し去り、来年に夢を紡いで生きていこうではありませんか。
 今年も 心痛めることばかり起こったけれど、絶望の一歩向こうには明日があることを信じて、たしかな日を積み重ねていきたいものです。
 では、よいお年をお迎えください。

悲しき濡れ落ち葉

 落ち葉の季節となった。

日影さし時雨れきにけりくれなゐの極まる楓散りてやまなく

と、千代國一が詠んだ歌のように、木漏れ日があたり、時雨に舞い散るくれないの紅葉は、華麗に見えるけれど、なぜか寂しく切なさが胸に染みるようでもある。
 と、格好よく言うのは良いけれど、ホント言うと、髪の毛うっすらハゲ模様の私としては、優雅な気持ちに浸る前に、つい「濡れ落ち葉」の方を連想してしまう。
 言いたくはないが「濡れ落ち葉」とは
「定年退職の夫や、出かけようとする妻の後をついて歩いて離れない夫」のことを言うそうである。まあ、「粗大ゴミ」と言われるより、「マ いいか」という気がするけれど、
小樽の久木俊彦さんが詠んだ川柳

妻の手で 払いのけられ 濡れ落ち葉

を読むと、ついわが身につまされてしまう。
 春の花が散るのと違って、落葉樹は五輪真弓の「恋人よ」のように、失恋や片思いに似合う。だけど、

たとえば君 ガサット落ち葉すくふように私をさらって行ってくれぬか

河野 裕子

と言うような歌もある。
 この落ち葉は、舞い散る枯葉とちがって、重い枯葉にちがいない。だから
「あなた 私をさらって行く勇気ある?」と、問われてタジタジとなる男性が目に見えてくるようである。
 ウーン、女性は強い。これじゃあ、男性が、濡れ落ち葉的存在になっても仕方ないよね。

※千代國一 1916年生まれ。「国民文学」責任者。歌集「鳥が棲む木」など。
  河野裕子 1946年生まれ。歌詩「塔」選者。歌集に「歩く」「庭」など12冊。

白い一日

 毎週木曜日に放映されるNHKTVの「音楽・夢くらぶ」と、フジTV系で土曜日に放映される「ミュージックフェアー」は、私のお気に入り番組で、毎回必ず見ている。
 そのNHKTVの「音楽・夢くらぶ」で小椋佳と一青窈が11月3日に出演!!!
 一青窈は、その名を「ひととよう」と呼ぶように、摩訶不思議な雰囲気を持った歌手である。彼女の『もらい泣き』を初めて聴いた時、引き込まれてしまいそうな独特な歌い方に魅せられてしまったけれど、その彼女が井上陽水の曲の中で一番大好きだという『白い一日』を小椋佳と歌ったのである。
 なんとスッゴイ!!! 実は、私も陽水の曲の中で、この曲が一番好きな曲なのである。この一言で、一青窈は私にとって「歌のうまい歌手」から「大好きな歌手」に変身。なんたって、陽水のフアンは多いけれど、『白い一日』が一番好きという人は少ない。彼女と同じ感性だなんて、こちとら髪の毛うっすらハゲ模様にもかかわらず、うれしくなってしまった。

まっ白な陶磁器をながめては飽きもせず
かと言って触れもせず そんなふうに君のまわりで
僕の一日が過ぎてゆく
目の前の紙くずは古くさい手紙だし
自分でもおかしいし やぶりすてて寝ころがれば
僕の一日が過ぎてゆく
ある日踏切りの向こうに君がいて
通り過ぎる汽車を待つ
遮断機が上がり ふり向いた君は
もう大人の顔をしてるだろう
この腕をさしのべて その肩を抱きしめて
ありふれた幸せに落ち込めればいいのだけれど
今日も 一日が過ぎてゆく

 この曲は、私が東京で華の独身生活‥‥ン? 訂正、華の単身生活をしていた時、目黒のマンションで(勿論、言うまでもないが、誰かさんのマンションではない。私が住んでいたマンションである)、日曜日の午後、FM東京を(勿論、言うまでもないが、誰かさんと一緒にではない。私一人で)つくねんとホンワカ気分で聴いていた時に流れてきた曲である。
 その時、何故かしらねど、この詞が私の気持にぴったりフィット!!! 以来、私の大好きな曲となってしまった。
 ところが、一青窈がこの曲を歌い終わってから、
まっ白な陶磁器をながめては飽きもせず かと言って触れもせず‥‥の歌詞が、とってもエロテイック」と,この曲の作詞をした小椋佳に言ったのである。
 ウーン、なんとエロテイックとは!!! 
 一青窈のこの言葉で、私がこの曲を聴いたとき、何故ぴったりフィットしたのか初めて理解できたのである。
 なんたって、この曲を聞いたとき、しっつこいようだが、誰かさんのマンションで誰かさんと一緒に聴いた訳ではない。私の1DKのマンションで一人寂しく聴いていた訳である。だから、多分、「エロティク憧れ症候群」に感染していて、この曲に共鳴したに違いない。自分でも気がつかなかった私の深層心理まで解き明かしてくれるなんて、一青窈はエライ。「だーーーい好きな歌手」にすることにしよう。
 藤井文弥が、ある音楽番組で「タイムマシンって、本当にあるんだよ。懐かしい歌を聴いたら、その時代に戻るでしょ。だから、音楽はタイムマシン」と言ったが、その通りである。『白い一日』を聴くと、目黒の1DKの部屋が蘇ってくる。言うまでもないけれど、これは私の住んでいたマンションで、それも一人で‥‥。

遥かなる想いをこめて

 今はもう秋。そう、もの思う秋である。
 さまざまな出会いがあって、そして

 もう少し早く出会っていたら、とか
 もう少し若かったら、とか
 あの人と付き合っていなかったら、とか
 あの一言が云えなかったばかりに、とか

 そして、結婚していなければ、とか

 そんな想いの残る別れがあって‥‥
 遠いあの日は戻らないけれど、心のアルバムの片隅に、そっと貼ってあったあの人が、ふと浮かんでくるのも、秋だからです。
 そんなあなたに、若山牧水の歌を‥‥

うら恋し さやかに恋をとならぬまに 別れて遠きさまざまの人

秋は遠くなりにけり

 秋である。スポーツの秋と言うわけで、私の住む地区の「南丘体育大会」が小学校の校庭で10月9日に行われた。
 私にも「グランドゴルフ」なるゲームに出ろという長老からのお達しがあったが、グランドゴルフなんてやったことがない。
 「なに、誰でもできる年寄りのゲーム。やったことがなくっても大丈夫」と簡単に言う。「年寄りのゲーム」には、内心忸怩たるものがあるが、ボスには逆らえない。やむを得ず出ることにした。
 だけど、こう言っちゃあなんだが、ゴルフは私が40代の華やかりし頃,15回ほどコースに出たことがある。
 「1回もゴルフの練習場には行かなかったっけれど、最初にコースに出たときから、ほとんど平均して90前後でコースをまわる」というと、皆さん
 「エッツ、最初から90なんて、スゲー!!! 」と、尊敬の眼差し。
 「ウン、ハーフで90前後」
 ここで、ゴルフを知らない方に言うけれど、ハーフは9ホール、1回のラウンドで18ホールまわる。普通、18ホールで90前後でまわることができれば「うまい」人と言われる。
 と、言うことは、普通の人の倍以上、即ち1ホール180回もボールをブッ叩たきながら、私はコースをまわっているということになるのである。
 私は、天性の運動バカなので、少年時代、野球をしても、球がバットに当たったためしがない。大体、飛んでくる球に当てるなんてアホなことが出来る訳がない信じている。しかし、ゴルフは止まっている球を打つだけである。こんなに簡単なことはないだろうと思っていたが、これが大誤算。
 大体、球も、球を打つクラブも小さすぎる。球もせめてソフトボ-ル位の大きさで、クラブも、スコップ位の大きさがあれば、私も軽々打てると思っているが、とかくこの世はままならぬ。 
 それに、大体、私が打ったボールは、空を飛ばない。地球の上をゴロゴロ。どうも、素直な私の性格をボールも見習って、地球の引力に逆らってまでは飛んで行かないらしい。
 そして、ヤットコサとボールが芝生にたどり着いても、穴の前後左右を行ったりきたり忙しくって、穴に入る暇などある訳がない。すると声あり。
 「もう、穴に入ったことにしよう」
 以来、私のボールが穴に1メートル以内に近づいたら、入ったことにするというルールが出来てしまった。
 そういう訳だから、私のスコアーは、驚異的な数字となり、計算するために電卓が必需品となる。
 ゴルフコンペでは、いろいろな賞が出されるが、普通は1~5等に加えて「ブービー賞」なるものがある。この賞は、ビリから一つ上の人に与えられる賞である。1度でいいからこのブービー賞を取りたいというのが、私の夢であったが、1回も取ることが出来ず、全部ビリばかり。しかし、バカにしてはいけない。15回連続オールビリなんて、世間広しといえども、私だけであろう。貴重な記録保持者といえる。
 「ゴルフの練習場に行ったら、きっとうまくなるよ」と言うけれど、私は、1回のゴルフで、2回分のゴルフが出来るなんて、なんと素敵と思っている位だから、練習などする訳がない。すると、皆さん、私がイヤイヤ付き合ってくれていると誤解して、次第に誘わなくなり、私のゴルフ人生は15回で終わりを告げてしまった。
 さて、今度はグランドゴルフである。これは、球もクラブもチッピリ大きい。距離も20メートル位先の目標に向かって球を転がすだけでいいというわけで、転がすのは私の得意技である。1回きりの勝負で、目標に一番近いボールを打った人が1等となる。
 これなら大丈夫と、得意満面、打ったところが意気揚々と打ちすぎてなんと、私の打ったボールは遥かに目標をオーバーして、観客席まで転がってしまった。本大会最大の飛距離である。これが、ゴルフなら、大いに称えられるところであるが、ホント残念。遅きに失した感じである。悔やまれてならない。
 これだから、スポーツの秋は嫌いである。やはり、食欲の秋と言いたいけれど、固いものは噛むと歯が痛むし、読書の秋と言っても2時間も本を読むと目がチラチラするし、失恋の秋と言いたいけれど、失恋するためには恋をしなければならない。
 ホント、私、67歳。きらめいて秋どころではない。秋は遠くなりにけりである。