これって魔法!!!

 『目からウロコ』とは、正にこのことである。

 あまり大きい声で言えないけれど、この世は分からないことがいっぱいある。
 人は精子と卵子が結びついて出来るというけれど、精子の長さって0.06ミリ。それから、どうして心臓やいろいろな働きを持つ内臓、血液、骨が出来るのか分からない。全部完成した後も髪の毛や爪が生えてくるが、何を原料にしてどうやって作くるのか分からない。花粉症で悩まされた憎いアンチクショウの大量の鼻水や涙は、どこから絞り出されてくるのだろう。

 TVだって、どうして写るのか分からない。映像や声が空を飛んで来るみたいであるが、空を見ても何も見えないし音も聞こえない。いっぱいウジャウジャと空中を飛び回っている映像やその色や声が、どうしてごちゃまぜにならずに、TVの画面から出てくるのだろう。おまけに、不思議なことにはぴったり口の動きに合わせて言葉も出てくる。
 電話だってそうである。ニューヨークに電話したとき、ペラペラと英語で‥‥はなく、日本語でしゃべったけれど、まるで隣の家から電話しているように、たちまち声が届く。ダイヤルしただけで太平洋をスタコラサと渡り、何億本とあるアメリカ大陸の電話線をかいくぐり、かけた家の電話に辿り着くなんてことは、とてもじゃないが、エンエンと時間がかかりそうなのに、それが瞬時に出来るなんて、どうして?
 携帯電話だってそうである。線もないのに、まして動いている相手に、空中は携帯の声で満ち溢れているのに声が届く。それに「愛している」と言ったのが、どうして誰かが話した「あなたって嫌い」に取って変わったりしないのだろう。
 これは、ほんの数例であるが、それぞれの専門家に言わすれば、それなりの理屈があるらしい。しかし、ヘイへい凡人たる私にとってはチンプンカン、不可解の一語につきる。よって、この世は訳の分からないことに満ち溢れて、私は悩み多き一生を送くらざるを得ない。
 それなのに、誰も平気な顔をしてノホホンと生きておられるものだと感心する。でも、そんなことで悩んでいるなんて言うと
「アホか」と言われそうだから、黙っている。
 ところがである。ハリー・ポッターの翻訳者であり出版元でもある松岡佑子さんの「夢と言葉と魔法を少し」と題した講演会の内容を読んだ時、この訳の分からないことだらけの悩みが一挙に解決したのである。
 作家C.W.ニコルが、ある時松岡裕子さんに
「魔法は本当にある」と言ったそうである。
「春になって川の水がゆるんで、カエルの卵がオタマジャクシになる。これは、魔法だよ。そして、そのオタマジャクシの尻尾が取れて、カエルになる。これも魔法だよ」と。

 ホント、『目からウロコ』である。私の訳の分からないことって「魔法なんだ」と思えばすべて解決する。
「目に見えないほどの精子から人間が出来る。これって魔法!」
「TVから動く絵や声か聞こえる。これって魔法!!」
「その他、アレコレ訳の分からない物がいっぱいあるけれど、これって魔法!!!」
 スッゴイ!!!!
 私はたちまち納得したが、彼女はこれを聞いて、
「自然を信じる心を持つということは、魔法を知るということなんだ」と思ったそうである。そして、幼い頃から自然に親しんでいた彼女は「その魔法のおかげでハリーポッターの版権を取ることが出来た」と。
 そう、魔法は夢の中だけのことではないのである。あなたも自然に親しみ、魔法を信じる心を持つことが出来たら、魔法のおかげで夢が叶うかも‥‥。

4.25人心事件 Part2

 私は、ミーハー的音楽大好き人間である。そもそもの馴れそめは、1954年の映画「暴力教室」の主題歌で、ビル・ヘンリーとコメッツが歌う「ロック・アラウンド・ザ・クロック」を聴いたとき。
 「これは何だ!!!」と青春なりたてホヤホヤの私は、この曲でたちまちミーハー音楽派に開眼。以来、アメリカンポップスからエルビスに、それからビートルズをチョッピリ聞きかじってモダンジャズに変身。
 しかし、なぜかカタカナ語の音楽に飽きて、フォークからニュミージックと心変わりしたところが、そこでストップ。どうも、中年となり頭の鈍化に伴い、歌への遍歴も止まってしまったらしい。今では、オールディーズ愛好家として足跡を残すのみである。
 そこで、今でも大好きなニューミュージックは、陽水を筆頭に、ミーンナ好きだけれど、歌詞の語彙の豊かさについては、さだまさしの右に出るものはないと思っている。
 そのさだまさしが、5月28日朝日新聞朝刊の「さだまさしからあなたへ」というコラム欄に『哀しい大人 反面教師に未来を作って』と題してエッセイを載せた。
 さだまさし、53歳。私に比べて13歳も若いのに、彼の歌詞、メロディラインには心に触れるものが多く、今度新聞に掲載されたコラムにも
「ウーン、実感!!!」と心動かされてしまった。
 と言うのは、私も
「こんな時代に誰がした!!!」ではなく
「こんな時代に俺がした!!!」と内心忸怩たる思いをしていたのである。そこで、まだ読んでいない方のために、少し長いが彼のメッセージをここで紹介したい。
 こんな情けない大人たちに育てられた若き君の無念を思うとき僕は絶句する。
‥‥カラオケやヨン様に夢中で家庭を置き去りにしたかのようなオバサンたちも、若き日は未来を夢見、子育てに、理想の家庭を作るために、と努力した。無念にも世の中の壁に打ち砕かれ、志を失ったり諦めたりしてしまったが、かっては君たちと同じように夢を抱いていた。
 一方、粗大ゴミ扱いのオジサンたちだって、かって勇敢に国の不正義と戦おうとした人も多く、その敗北感や挫折感から自信を失い人生に迷った。そして虚脱感と虚無感と戦い、そこから抜け出すために仕事に命を捧げた。だがバルプが弾け、「終身雇用」「年功序列」という「信仰」まで奪われた。
 こうして、いつの間にか、恥や礼儀を何処かに置き忘れたように見えるオバサンたちと、不完全燃焼のまま夢や情熱をなくしたように見えるオジサンたちがこの国の最多数派となった。
 かくして日本は世界で有数の幼稚で、恥知らずで、軽薄で、不人情で正義と夢のない国になった。
 これを率直に詫びて、お願いする。私たちと同じ轍を踏まぬように生き抜いて欲しい。今の大人たちとすべて反対のことをすればよい。難しくとも、だ。
 よく人の話を聞き、人と話すこと。「国とは国語なり」だ。友人を大切にし、礼節を重んじ、学歴を盲信せず、きちんと人の心を見つめ、年寄りを大切にし、子供を守り、男女は互いを尊重し、譲り合い、愛し合う。
 諍う時でも決して暴力に頼らず、相手の身になって考え、夢を捨てず、いつも笑顔を絶やさず、力を惜しまない。これだけのことで君の未来は強く、大きく、明るく拓けるだろう。
 挫けそうになった時こそ私たちを思い出してほしい。私たちの後悔を君に味あわせたくない。以上、切実に膝を折って若き君にこいねがうばかりである。
 お願いだ。お願いだ。お願いだ。