切なさを刻んで・・・(掌編小説)

 彼女は行ってしまった。私の知らない何処かに。私の心に深く切ない思いを残して姿を消した。
 50歳にもなると、青春の頃、夢と希望に輝いていた人生も色褪せてしまう。そして、夢と希望を上手に諦めることが出来るようになると、風に逆らって歩くこともなくなってしまった。
 大学を出ると、私は故郷の福岡県にある建設会社に勤め、身をかわすことが出来なくなるような荒波をかぶることもなく、ほどほどの人生を歩んできたと云えるかもしれない。
 しかし、60歳の定年まで10本の指で数えられるようになってくると、これからの自分の行きつく場所が見えてきてしまった。
 そして、自分の人生の持ち時間が、今まで生きてきた時間よりも少なくなってきたことに気がつくと、このままの状態で自分の人生に終止符を打つことに対し、何か物足りなさを感じてならなかった。
 それに、これまでの自分の生きたきた時間の重さを感じることもなく、唯、単に生きてきただけに過ぎないのではないかと疑問を感じ始めてきた。
 言い換えれば、自分の人生から家族と仕事を除いたら何も残らないのではないか、ということに気が付くと寂しくなってきたのである。
 だから、家族と仕事以外にも、私自身にとって自分が生きてきたという証が、何か生きていて良かったと思えるものが欲しかった。とは云うものの、それが何だか分からないままに暦は確実にページをめくり、時だけが流れていった。

 1998年の秋、私は役員に昇進すると共に、東京支社の開発部長として転勤することになった。入社して以来、転勤したことはなかったので、まさか50歳になって転勤するとは思わなかったが、東京で初めて大規模開発を手がけることになり、本社で長年開発を担当していた私が東京に行くことになったのである。
 しかし、病気がちの母を抱えていたため、妻と母を残し私だけが東京に行くことになった。長男は就職して広島に、次男は長崎大学に在学中で、家に居るのは母と私たち夫婦だけだったのである。
 東京では、中目黒にある3LDKの会社が所有しているマンションを借りることとなった。一人では広すぎたが、会社が八丁堀にあり日比谷線で乗り換えなしで行けるのが助かった。 
 一通り炊事道具は揃えたものの、帰るのが遅くなると自分で作ることが億劫で、つい外食することが多くなってしまった。 
 東京に着任するや、休日もない程仕事に追い回される毎日が続いた。その年の秋には天皇陛下がご重態となり、そして年が開けると共に崩御されて昭和が終わりを告げた。アメリカの大統領も代わり、ソ連はアフガンから撤退し,何かが終わりを告げ何かが始まろうとしていた。私の仕事も春になると、何とかプロジェクトを軌道に乗せることが出来、一息つけるようになった。
 仕事が楽になると、むしろ休日には一人でいると時間をもてあますほどであった。そこで運動不足を補うためにもと、会社の女性に相談したところ、ヨーガはどうですかと云うことであった。
 ヨーガだと年齢に関係なく無理せずにマイペースで出来るということだったので、電話帳を見て会社の近くにあるヨーガ教室を探し出した。 
 それが京橋にある綿本ヨーガスクールである。
 そして、そこで高校時代の同級生である木村民子と会ったのだった。東京に来て翌年の春、51歳の時のことである。
 木村皆子と顔を合わせた瞬間、私は彼女の名前を口にしていた。高校を卒業してから会ったこともなかったのに、自然にその人の名前が出てきたのである。そして、驚いたことには彼女も
「あら、尾田さん・・・隆さんでしょ?」と同時に私の名前を口にしたのだった。
 私の心の中で33年という時の流れがくだけて散り、私は彼女と最初に出会ったあの遠い日に戻ったような気がした。
 高校時代、私は彼女と特に仲が良かったといういう訳ではない。私が入学したのは熊本市にある熊本高校だったが、福岡県行橋市にある京都高校に1年生の時に転校し、その転校してきた最初の日に、校舎の角で出会い頭にぶっつかりそうになって顔を合わせたのが木村皆子だったのである。その時、
「あら、ごめんなさい・・・」と話しかけられたものの、私はただ立ちすくみ口をきくことさえ出来なかった。私が入学した熊本高校は男子校だったから女生徒と話すことに慣れていなかったせいでもあるが、なによりも彼女の笑顔が眩しく、ときめいて胸が一瞬止まったような気がしたのである。
 そして、それ以来彼女の爽やかですがすがしい笑顔は、私の心を捉えて離れようとはしなかった。
 しかし、彼女とはクラスも違っていたし、又、彼女は男子生徒の憧れの的でもあったから、転校生である私にとって彼女は遥か遠い存在であるように思えた。だから、私は、そのときめきを胸に秘めたまま卒業してしまったのである。
 だが、あれから33年も時が流れているのに、彼女に再会した時、あの遠い日と同じときめきを感じたのはどうしてであろう。それは自分でもよく分からなかった。卒業してからは彼女のことを思い出すこともなくなり、そして、忘れてしまっていたのに・・・。
 思いもよらぬことだが、きっと、私の心のアルバムの一頁に彼女の写真が貼ってあったのに違いない。
 33年の歳月は、彼女の若い頃のあのときめいてはじけるような笑顔を、あでやかにしっとりとした笑顔に変えているものの、ぬけるように白い肌とやさしく人の心をつつむような眼差しは少しも変わっていなかった。
 二人並んでヨーガをした。私と違ってもう15年もヨーガをやっているという彼女は伸び伸びと、とても50代の身体とは思えず眩しく思えた。
 その日は、土曜日だった。土曜日のヨ-ガは12時から始まり1時半に終わる。ヨーガをする前の食事は禁じられていたので、ヨーガが終わると
「おなかペコペコ。私、終わって食べるのが嬉しくってヨーガをやっているようなものだわ」と言い、彼女の行きつけの店に行くことになった。
 ヨーガ教室は京橋の交差点の近くにあった。そこから環状1号線の下を通り抜け、銀座1丁目に出ると、そこにドイツ料理店「つばめ」がある。そこで食事することとなった。
 彼女のお気に入りはハンブルグ風ステーキ。
「これって、コレステロ-ルの固まり。あなたは別のものが良くってよ」と、云われたものの同じ料理を注文した。
 この料理はアルミホイルに包まれた熱々のハンバーグに,添えものとして皮のついたままの大きなジャガイモが一つ付いて出てきた。彼女はこのほかほかのジャガイモが大好きだったのである。
 食事が終わると、銀座三丁目の角にある銀座カネボウのティルームでお茶を飲んだ。
「不思議だわ。私達、ずっと昔からの知り合いみたい」
「そう、あのぶっつかりそうになった出会いだけなのに」
 彼女もそのことを覚えていた。
「だけど、尾田さん、あの時、この野郎って顔をして何も云わず私を睨みつけたでしょ。そして、それから後は、廊下ですれ違っても、女の子なんて眼中にない顔をして、目線は私を通り越して遥か彼方。まるでツンツンのツンだもの」
「そんなことないよ。それは木村さんの方」
「なんだ、二人とも同じように思っていたのね」
 二人とも吹き出した。そして、過ぎ去った時と共に、あの切なく甘い想いが戻ってきたような気がしたものである。
「今、考えると信じられないみたいだけど、二人とも若くて純情だったんだ・・・」
「そうね、あの頃に帰りたいわ。純情だなんて言葉、セピア色に色褪せて・・・そう、私の世界からなくなっちゃった」
 またたく間に時は流れ、気が付くと黄昏がティルームのガラスに広がっていた。彼女の家は恵比寿、私は中目黒だったので帰る方向は一緒だった。こうして、彼女との出会いが始まったのである。
 それからは、毎週土曜日になるとヨ-ガに行き、彼女と出合った。ヨーガが終わって夕方別れるまでのほんのひととき、私は切なくきらめいていたあの時代に戻り、時までも豊かにゆったりと流れていくように思えた。
 しかし、気持は青春時代に戻っているようにみえても、話すことといったら、お天気の話に始まって、いつもたわいのないよもやま話ばかりだった。云ってみれば、私達の年代にありがちな不朽にして無難な話題ばかりである。
 お互いに家族のことはあまり話さなかった。私にとって彼女だけが私の知りたい全てであり、彼女以外のものに対しては興味がなかった。だから、彼女の家や夫のことについては、一切聞かなかった。いや、聞きたくもなかったと云った方が正しいのかもしれない。
 彼女も多分私と同じ考えだったのだろう。私の妻のことも話題にのぼらなかった。二人とも、会うときはあの時代に戻って家族や仕事と切り離された世界にいたい、という同じ気持を持っていたのだろう。お互いに自分の生活を匂わして会いたくなかったのである。
 ただ、彼女が日立系のコンピューターソフトの会社に勤めている娘さんと大阪の大学に行っている息子さんの話を一度だけしたことがある。そして、
「私って子供のことになるとつい一生懸命になっちゃうの。だから、今までの私の人生って子供のためにあったようなものよ」と話した。そして
「だけど、2人とも私の手から離れてしまったでしょ。もう私の家では、私いなくってもいいの。もうこれからは、自分で私の人生を生きたいわ」と言ったことがある。
 彼女は結婚生活が幸せなのかどうか、ほのめかしたことなど一度もなかった。だからその時、私は彼女が言った意味を図りかねたのである。単に束縛されず振舞うということなのか、それとも家族から離れて自分独りで生きてゆきたいということなのか分からなかった。
 と、云うのは、彼女の場合独りで生きていくということが可能だったのである。彼女は宝石のデザイナーをしていた。彼女の仕事場は銀座2丁目にある銀座貿易ビルの角を曲がり昭和通りに行く途中にあった。宝石加工会社「ルブエ」である。仕事の性格上、会社で必ずやる必要もないため家にも仕事場を持ち、会社には必要な時にだけ行くということになっているらしかった。
 好きなことをして、それが仕事になるという羨ましいほどの環境で、原石をカットするためのデザインもさることながら、古い宝石をカットしなおすためのデザインの仕事も多いようであった。私はまったく知らなかったが、宝石のリホームの方ではかなり名が知られているようだった。だから、
「私、一人で生きていく位の収入はあるのよ」と云って、食事する時はいつも割り勘を主張し私を困らせたものである。 
 私の会社は八丁堀にあり彼女の仕事場は銀座1丁目、住まいも中目黒と恵比寿。偶然とはいえ、いずれも近くにあって、それで京橋のヨーガを二人とも選んだことになったのであろうが、私には何か見えない糸で結ばれていたのではないかという気がした。
 しかし、彼女は
「私達、18じゃないのよ。50にもなってそんなこと云ったら笑われるわ」と云って取り合わなかったが、私は会う度ごとに彼女の笑顔のとりこになり、そして彼女への想いを強くしていった。
 私はそれ迄妻に対し何も不足はなかったし、家族を大事にしたいという気持に変わりはなかった。妻も子供たちも愛していると云っても過言ではなかったのである。だが、妻に対する感情は恋とは異質なものであった。
 結婚した男が妻以外の女性を好きになった時、浮気と一言で決め付けられてしまう場合が多いが、私はこれが浮気とは思いたくなかった。浮気と恋心とは違うと・・・。
 私は、浮気心を起こしたことはあっても、恋心を抱いたことなど一度もなかった。恋心を持つことが出来るのは、青春だけが持つ特権だと思い込んでいたのだる。
 それが、この年になって、そういう気持ちを持つようになろうとは自分でも信じられなかった。そして、私の心の中で妻に対する愛情と彼女に対する恋心とは、お互いに矛盾することなく存在し得たのである。
 彼女と会って1ヶ月もたつと、ヨーガの時に会うのではなく映画やコンサートにも一緒に行くようになった。誘うと彼女はいつも出てきた。彼女が夫に何と云って出てきているのか知らないし、又、聞こうともしなかった。彼女の夫が寛大なのか、それとも冷え切っていて断って出てくるまでのこともないのか、私には見当もつかなかった。
 しかし、会う時間が増えたからといって私達の関係が進んだかというと、まったく変わらなかった。
 私の方は、会う度ごとに彼女の手を握りたい、彼女の顔を両手でそっと包んでみたい、そして、この腕でしっかりと抱きしめてみたいという想いを強くしていった。
 だが、私の手が触れようとすると、彼女はいつもさりげなく外してしまうのだった。
 恋をすると、人はいつもその人の側に居たい、触れてみたいと思うものである。私は50歳になってと笑われそうだが、本当にそうだった。そして、私の気持ちは彼女にも伝わっていたと思う。それに、彼女の素振りや私を見詰める目、話し振りから考えると、彼女も私と同じ感情を抱いているように思えた。
 しかし、彼女は心では私を受け入れているように思えたが、それが実際に行動で示されると・・・手を触れようとしたり、肩を抱こうとするだけでも・・・いつもさりげなく、私を傷つけないようにそっと外すのだった。私にはそれが理解できなかったが、そっと外されるともうそれ以上のことは出来なかった。50歳という分別もあったし、彼女から嫌われるようなことはしたくなかったのである。
 彼女は柔らかくカールさせた長い髪を後で括っていた。だから、耳からうなじにかけての白い肌がいつも私の目を惑わせたものだった。しかし、いつもきちんと括られている髪を見ていると、たまには彼女の頬にかかる長い髪も、風にそよぐ長い髪も見たいと思ったものである。
 しかし、彼女はリボンで結わえた長い髪を決してとこうとしなかった。私には、固く結わえられたその長い髪が、私を拒む心の象徴のように思えたものである。
 彼女の星座は水瓶座で私は獅子座だった。ホロスコープのとおり二人とも考えも好みもまるで違っていた。私にとってそれが面白く感じられたし新鮮に思えた。彼女の意見を聞くのが楽しく、性格の違いがかえって二人の間を引き付けたといってもよかった。ただ、音楽については、二人の好みが一致した。
 そこで、その年の初め、そう、彼女に会って半年が過ぎた頃である。谷村新司のコンサートに行くことになった。その年のコンサートツアーが始まり私の好きな曲というか、それよりもむしろ私の彼女に対する気持ちを歌に託したような曲がプログラムに入っているのを知っていたのである。
 だから、彼女に聞かせようと私が誘ったのだった。彼女にその曲の名前は教えなかった。コンサートが終わった後で、当てて欲しいと云ったのである。
 コンサートは渋谷のNHKホールであった。私が聞いて欲しいと思ったのは「海猫」という曲である。

   いつか憩える時が来たなら
   貴方の手をひいて 汽笛のきこえる
   町へ行きたい

   その時がくるまで
   私は生きていたい
   その時がくるまで
   私は生きていたい
   潮風にゆれる 長い黒髪を
   この目にみるまでは 生きていたい・・・
   いつか笑える時が来たなら
   貴方と二人きりで 汽笛のきこえる
   町へ行きたい

   その時がくるまで
   私は生きていたい
   その時がくるまで
   私は生きていたい
   海の雪のように 群れ飛ぶ海猫を
   この目にみるまでは 生きていたい
   この目に見るまでは

   生きていたい・・・

 コンサートが終わりNHKホールを出ると、公園通りを下りパルコの角を右折してスペイン通りに出た。そして、その通りの階段を下りきった所にあるスペイン料理の店「ピイドロ」で食事をした。ワインと野菜のマリネにイカの墨煮、それにパエジャを頼んだ。そして、ワインが出てグラスを会わせ、彼女が口をつけようとした時、私は
「ストップ。曲を当てたら飲んでいい」
「当たらなかったら?」
「その時は、罰ゲームとして僕の頬にキスをする」
「いやね。隆さんてずるいわ」と睨んで
「大丈夫。当てちゃうから」とにっこり微笑んで
「でも、ヒント頂戴」
 私はこの微笑に弱い。
「そう・・・僕の想い。皆子さんに対する想い。だけど、何故か口に出せなくって・・・」
「そう・・・」と、真剣な顔をした。そして、しばらくたってから
「本当は聴いたときにすぐ分かったの・・・海猫でしょ」と、まっすぐ私を見詰めながら云った。
 そして
「隆さんの気持ち分かってるの。だけど・・・」
 後は言葉がなかった。目が潤んで見えた。それから料理が配られてきたが彼女は口数が少なかった。そして、しばらくして
「日本海の沿岸にいるんですってね。海猫」
 島根県の日御岬。私は思い切って心に思っていることを話した。二人でそこに行き海猫を見たいと・・・。彼女が承知する訳がないと思っていたが、口に出さずにいられなかったのである。彼女は
「そうなの・・・。どうしても?」と訴えるような目をして私を見つめた。
 そして彼女は黙り込み、私は料理を食べることに専念する振りをしたが、どんな味がするかはまったく分からなかった程である。
 食事が終わると店を出た。渋谷駅前の人通りの少なくなったスクランブル交差点を渡る。ところが、その交差点の真ん中で、彼女は急に私の手を引いて立ち止まり、私を見つめて
「いいわよ。行きましょう。日御崎」
 私は、一瞬周りの動きが止まったように思えた。立ち止まっていたのは、ほんの数秒だったに違いないが、わたしには永遠の時が流れたような気がしたのである。

 1ヶ月後の秋も終わりに近い土曜日の朝、JAS271便で出雲空港に向かった。1時間20分の空の旅である。早朝の第1便なので彼女がお弁当を作って持て来てくれた。少し大きめの折箱に二人分のお弁当。小さなおにぎりと私の好きな玉子焼き、鳥の唐揚げにブリの照焼、それにアサリ貝の佃煮と奈良漬が少しずつ入っていた。
 一つの弁当を二人で分け合って食べていると、通りかかったスチュワーデスがお仲がよろしいのですね、旧婚旅行ですかと云いながらお茶を持ってきてくれた。すると、彼女は
「ええ、そうなの。わかります?」とはしゃいだ声を出した。いつもより彼女は明るく屈託がなく、そしてきらめいて見えた。その都度、彼女のぬくもりが私に伝わり、私の心をとかしていくような気がした。
 JASのジエット機DC9は青く澄み切った空を駆け抜け、9時過ぎには出雲空港に到着した。時間が早いので、まづ出雲大社に行くことになった。空港から車で40分たらずで行く。車を降りると、彼女は私の腕に手を廻し私を見て微笑んだ。
「ね、ご満足?」
 そしてゆくりと杉並木の参道を歩き銅鳥居をくぐった。時々、彼女の胸のふくらみが私の腕に伝わり、私の心は波立って、その鼓動が彼女に伝わるのではないかと心配した程である。鳥居をくぐると拝殿に着いた。出雲大社は縁結びの神様である。彼女は
「私達、来るのが遅すぎたみたい。ザーンネン」と笑いながら云ったが、私は遅すぎたとは思わなかった。まだ、今からでも間に合うと・・・。そして二人でお参りした。
 それから、参拝順路に従って49社、氏社・・・と周り最後にベンチに座って肩を寄せ合って休んだ。境内は人影も少なく晩秋の透き通った陽ざしの中で、私は幸せだった。このまま秋の空気の中に溶け込んでいけたらと思った。彼女も
「静かね。時間が止まったみたい。ずっとこうしていたいわ」と溜息をついたが
「だけど、おなかもすいちゃった」と云って私を笑わせた。
 そこで、出雲大社の近くにある創業180年という手打ちそばの老舗「荒木屋」に行き、三段重ねの朱の器に入った割子そばを食べた。さすが本場だけあって
「おいしい。おなかいっぱい。又、感動しちゃった」と彼女は目を輝かせた。
 そこから、バスに乗り島根半島の西端にある日御崎に行った。稲佐浜を過ぎ崖の上を走りトンネルを抜けると海の向こうに三瓶山がすっきりと見えた。それから日御崎道路を走り30分足らずで日御崎のバス停に着いた。
 日御崎では旅館は1軒しかなく、あとは民宿である。旅館は団体が入っていたので敬遠し、グラスボートの乗り場の近くにある民宿を予約していた。「おおみや荘」である。
 宿に荷物を置き外に出ることにした。宿の近くにある日御崎神社にお参りした後、鳥見台展望所から海猫を見て、それから日御崎灯台に行き夕日が沈むのを見ようということになった。
 バス停の側にある朱塗りの美しい楼門をくぐると正面に日御崎神社の下の宮の本殿と拝殿が、右手の小高い所に上の宮がある。下の宮は天照大神を上の宮は須佐之男命をお祭りしてある由緒ある神社である。
 そこでお参りしてから海岸に出て鳥見台展望所に行った。展望所の目の前にある小さな岩礁・経島が海猫の繁殖地である。飛来したばかりでまだ数は少なかったが、深く青い空をすべるように白い翼を広げて海猫が飛びかっていた。そして、その鳴き声を聞くやいなや彼女は
「本当だわ。ネコの声にそっくり。でも、なんだか悲しい声ね」
 二人ともその声を聞きながらあくこともなく海猫と経島と日本海を見入った。さすがに海の風がひんやりと感じられ、そして海猫の声が心にしみるように聞こえた。
「海の雪のように群れ飛ぶ海猫を・・・」と、彼女は口ずさみ私を見上げて笑ったが、何故か寂しげに見えた。それは、谷村新司がこの曲を切なく哀しく歌っているせいであるかもしれない。この曲は、海猫を見に行きたい行けない切なさを歌った曲であるが、しかし、私達はそうでない。寂しいはずがなかった。
 だけど、私には彼女が切なそうに見えて仕方なかったのである。私はその時初めて、私と一緒に来てくれているものの、彼女の心の内では、まだ何か吹っ切れないものが残っていて、それが切なさとなって表われているのではないかという気がしたのである。
 それから日御崎灯台に行った、松林の緑の中に真っ白な灯台が鮮やかに青い空に映えて見えた。石積みの灯台としては東洋一だそうである。高さ38m。163段の階段を上がると展望台がある。
「なんたって、もうダメ。やはり私達ダテに年取ったみたい」
 息をきらして昇ると展望が広がった。限りなく拡く青い海が空と交じりあい溶け合って私達を圧倒した。
 陽が落ちようとしていた。空と海を茜色に染めて太陽が沈もうとしていた。刻一刻と微妙に空と海の色が彩られ変わっていった。そこにあるのは圧倒的に迫る自然だけだった。私達は言葉もなくたたづみ、風に染まって永遠の時の中に溶け込んでしまったように思えた。夕日とともに、さまざまな想いがゆるやかに漂いそして消えていった。そして静粛だけが残った。
「人間で、はかないものね」
 陽が落ちると寒さが戻ってきた。月明かりの中で漁火が点々とともり、それを見ながら私達は宿に戻った。
 民宿「おおみや荘」に泊まっているのは私達だけだった。8畳の間に応接セットを置いた広縁があり、その向こうに海が見える。先にお風呂に入りそれから食事をすることとなった。風呂上りの浴衣を着た彼女は、すがすがしさが香り立つように思えたものである。美しかった。そして廊下の端にある洗面台の前に立ち、後ろで結わえた髪をほどき
「どう?」と、肩に掛かった髪を後ろに払いながら私に笑いかけた。その仕草が艶かしく私は目にやり場に困ったほどである。
 それからすぐに料理が運ばれてきた。鯛の生き造りに磯の香りがする料理がテーブルいっぱいに並べられた。
「あなたと一緒にいることに乾杯」
 彼女はそう云って微笑んだ。その笑顔が私の心にしみた。
 食事が終わると料理が片付けられ、二組の布団がひかれた。私達は応接セットに座り、月の光に浮かぶ海を見ながら波の音を聞いた。二人とも布団の方を見るのが憚れたような気がして、私達はまるで18歳の頃に戻ったようなものだった。ぎこちなく時が流れ遠くで汽笛が鳴り二人の静けさを破った。
「もう寝ましょうか」
 私が廊下のカーテンを引こうとすると、彼女が
「月の光の下で寝たいわ」と云ったので、部屋の障子も開けたまま寝ることにした。
 二組の布団に横たわり、月の明かりに仄かに浮かぶ彼女の顔を見詰めた。すると、彼女が
「手を貸して」と私の手を握り、浴衣の襟を少し開け、そっと乳房に導いたのである。
 私の指が、その固く尖った乳房にふれ、そして手のひらが、たよやかに弾む乳房を包んだ。私の手のひらと乳房は、初めからなじんでいるかのように一つになり、そしてその込めた想いを伝えあって熱く燃え・・・そう、二人で見たあの日本海に沈む夕日のように私の心を溶かした。
 すると、彼女は一瞬身体を震わせ私の手をそっと乳房から外した。そしてその手を握ったまま私の方に向き直り私を見つめた。そして云った。
「ごめんなさい」
 月の光の中で、彼女の瞳がきらめき潤んだ。瞳からあふれた涙が、頬に伝わり流れた。私は「ごめんなさい」という意味を瞬時にして理解した。しかし彼女の瞳は、そして頬に流れる涙は単に「ごめんなさい」という以上のことを意味しているように思えた。限りなく寂しく深い悲しみがそこにあったような気がしたのである。
 それが、私の熱く燃えた身体を除々にさましていったものの、彼女の瞳にうつったメッセージはいくら考えても分からなかった。彼女の流した涙の数だけ、私も涙を流したかった。しかし、それは出来なかった。そして、波が紡ぐ調べと時々聞こえる海猫の声を耳にしながら、彼女の心の扉を開くことが出来ないままに夜を明かしたのである。
 しかし、明け方には少し寝たのであろう。翌朝、目が覚めた時、彼女はきちんと洋服に着替えて私の枕元に座り私の顔を見ていた。
「おはよう」
 昨夜のことはまったく忘れたかのように明るい声を出した。そして昨日と同じようにはしゃぎ笑顔を見せた。それが、昨夜のことは触れたくないということのように思われ、私は何も聞かないことにしたのである。
 食事が終わると民宿に荷物を預けて、福性寺の根元の周りが4mもある大ソテツを見ておわし浜に廻った。昨夜より少し寒く感じられ、そのせいか彼女は私にぴったり寄り添って歩いた。昨夜の涙が嘘のように思われたほどである。それから荷物を受け取ると出雲空港に向かった。JAS274便に乗ると東京には3時に着く。こうして私達の旅は終わった。
 次の週末はもう12月である。綿本ヨーガスクールに行くと,担当の先生から一通の手紙を受け取った。彼女からの手紙である。そして、彼女がヨーガを止めたということを聞かされたのである。私は、うわの空で食事も取らず銀座カネボウのテイルームに行き彼女からの手紙を読んだ。
 突然のことで驚かれたと思います。でも、お会いしたら私の心、きっと揺れるにちがいありません。だから、こうして手紙をしたためることにしました。
 私は、あなたにお会いする迄は、夕暮れの坂道を転がっていくような色褪せた毎日を送っていたのです。でも、あなたにお会いし、あなたが私を見詰める度に、私の心にかかっていた魔法が溶けていきました。心凍らせていたものが溶けて、どこかに置き忘れていた笑顔が戻ってきたのです。そして、あなたが私に恋した以上に、私はあなたに恋をしていることが分かったのです。
 あなたが私にちょっとでも触れる度に、あなたの指先からあなたの想いが伝わってきました。私を欲しいというあなたの想いが、そして私も同じ気持ちでした。あなたの腕の中で、忘れかけていた温もりを確かめたいと・・・。
 でも、それが出来ませんでした。あなたは私を夢見ているのです。誤解しているのです。それも美しく・・・。私はもう51歳。私には若さも、豊満さも成熟さもありません。私の身体にあるのは、そう残念ながら51年にわたって刻み込まれた歳月の襞だけなのです。私は風呂上りの鏡の前で、せめてもう10年早くあなたとお会いしていたらと、何度唇をかみしめたことでしょう。でも、それが現実なのです。
 そんな私をあなたに見せたくなかった。私の身体を知れば知るほどあなたはショックを感じるに違いありません。私はあなたを失いたくなかった。
 そんな時、谷村新司のコンサートで海猫の曲を聴きました。この曲を聴きながらあなたの痛いほどの気持ちを知り私の心はぐらつきました。
 そして、海猫をあなたと見に行く決心をしたのです。そこであなたに一度だけ抱かれよう、そしてお別れしようと・・・あなたに嫌われない内に。
 そう、今までの人生で、数々の過ちを繰り返しているのだから、それに一つ加えるだけだから、神様許してくださいと・・・。
 でも、あなたの手が私に触れた時、鎖に繋がれていた私の秘められていた感覚が目を覚まし、私の心は底なしの闇に落ちていきそうになりました。その時、私は分かったのです。私のさがの恐ろしさを。そして、私があなたを受け入れた途端、私の身体はあなたから離れられなくなることを。そんな私をあなたが嫌いになっても、あなたを追いかけていくことを・・・。
 だから、私は私の身体に逆らって、めくるめくような感覚に逆らって必死にあなたの手を払いのけました。こんなにあなたが好きなのに・・・どうして抱かれたらいけないのって・・・。涙が止まりませんでした。
 私達、もう恋をする年齢をとっくに通り過ぎていたのですね。お友達・・・そうお友達だったらと何度思ったことでしょう。でも、好きになってしまったことは後悔していません。あなたと見つめ合った日々を抱きしめ、とうの昔あきらめていた今迄の人生に句読点を打って、これからの新しい人生を自分のために生きてゆきたいと思います。私に素敵な思い出を下さってありがとうございます。
 もうお会いすることもないと思いますが・・・でも、いつかどこかでお会いすることを夢見て、その時は笑顔でお会いできますように・・・・。
 手紙を読み終えると、ガラス越しに銀座通りを歩く人々が霞んで見えた。そして、初めて私は、あの夜、彼女の流した涙を理解したのである。
 そう云うことだったら・・・と、私は思った。私だって同じだと。私も同じ年、見るに耐えないのはむしろ私の方だと。心さえ通じれば顔や身体は関係ないんだと叫びたかった。
 そして、彼女が欲しいなんてもう云わない、手を握りたいとも云わない、唯、会って貰うだけでいいと云いたかった。もう一度会いたい会って話をしたい、友達でいいからと・・・。
 翌日、彼女の所属していた宝石加工会社「ルビエ」に電話した。彼女は辞めていて、連絡先は分からないということだった。そこで、意を決して彼女の家に行くと表札は掛っていたものの人の気配はなかった。
 すると、隣の家からおばさんが顔を出して話してくれた。奥さんはいないわよ、別居している娘さんのマンションに行って一緒に住むって。なんでも、独立してお仕事をやられるみたい。ご主人は、めったに見かけることはないから連絡のとりようはなわね、と。
 それからというものの、私は眠れぬ夜を重ねたが、彼女が居ないのにもかかわらず近くに感じるようになった。過ぎた日は帰らないけれど、彼女は私の心の中で鮮やかによみがえり、彩を加えていった。
 そして、彼女の手紙にさようならの言葉がなかったことに気がつくと、私の消えかけていた心のともしびがほのかに瞬き始めた。
 私は、一つだけからっぽのまま残されていた心の引き出しに、その想いをそっとしまい込んだ。

京都高校同窓会誌第2号掲載(1993年発行)

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