文芸春秋の5月号に「人生には貧乏が必要だ」と題して、佐藤愛子と又吉直樹が対談した。作家も芸人も下積み時代があって、今があるという訳で貧乏時代の話を楽しく読ませてもらった。
自分の貧乏は、辛く惨めで切ないものだけれど、他人の貧乏話はそれを話す本人が楽しそうに言うと、つい
「ウフフ、アハハ」と、笑ってしまう。
貧乏も、その真っ最中はどん底気分だろうけれど、過去のものになってしまうと、笑い話にして吹き飛ばしてしまえるものらしい。
だから、貧乏真っ最中の時に、貧乏気分をさらりと流すことが出来れば、せめてもの救いになると思うけれど・・・そうはいかないのが人生である。
でも、詩人高橋順子は、中高年になった夫が職を失い貧乏生活が始まっても、アッケラカンとして「貧乏な椅子」という詩を書いている。
貧乏な椅子 高橋順子
貧乏好きの男と結婚してしまった
わたしも
貧乏が似合う女なのだろう
働くのをいとう
男と女ではないのだが
というよりは それゆえに
「貧乏」のほうもわたしどもを
好いたのであろう
借家の家賃は男の負担で
米 肉 菜っ葉
酒その他は女の負担
小遣いはそれぞれ自前である
当初男は毎日柴刈りに
行くところがあったので
定収入のある者が定支出を
受け持ったのである
そうこうするうち不景気到来
男に自宅待機が命じられ
賃金が8割カットされた
「便所掃除でも
なんでもやりますから
この会社に置いてください」
と頭を下げたそうな
そうゆうとこころは
えらいとおもう
家では電燈の紐も
ひっぱらぬ男なのである
朝ほの暗い座敷に座って
しんと
煙草を喫っているのである
しかし会社の掃除人の職は
奪えなかった
さいわい今年になって
自宅待機が解除され
週二回出勤の温情判決が下がった
いまは月曜と木曜
男は会社の半地下に与えられた
椅子に座りにゆくのである
わたしは校正の仕事のめどがつくと
神田神保町の地下の喫茶店に
週に一度
コーヒーを飲みに下りてゆく
「ひまー、ひまー」
と女主人は歌うように
嘆くのである。
「誰か一人来てから帰る」
わたしは木の椅子に
ぼんやり座って
待っている
貧乏退散を待っているわけでは
ないのだけれど
何かいいことを
待っているわけでもない
これって、深刻な詩だけれど、詩人の心は貧乏でないに違いありません。
だって、こんな詩を書けるんですからね。
貧乏でも心は豊かに・・・。
ウーン、そうありたいけれど・・・。
※高橋順子ーー1944年生まれ。「歴程」同人。引用した詩は「高橋順子詩集成」より。他に「時の雨」など多数。