夢物語をどうぞ

先の大戦で、わがニッポン国は戦争を始めたものの、戦争を止める落としどころを見失い、コテンパにやられて、やっと戦争を止めることが出来たというみじめな歴史をもっています。

プーチン大統領は、親ロシア派の組織が占拠していたウクライナ東部で、ロシア系の住民をウクライナ軍の攻撃から守るという大義名分で、ウクライナに侵攻。なくなったはずの戦争がよみがえりました。

無論、プーチン大統領は、ニッポン国の敗戦のザマを知っているから、戦争を終わらせる潮時を考えているはずです。
きっと、賢明なはずのプーチン大統領のことだから、ウクライナ南部・東部4州をロシアに統合させたら、侵略の大義名分を果たせたことになるので、「これにてオシマイ」にすると思っていたら、知らん顔。

どうも、賢明でないプーチン大統領に変身したみたいです。

ところが、ウクライナ南部・東部4州を併合した翌日に、ロシア軍は合併したはずのドネツク州の要衛リマンから撤退したと報道。
私、とってもびっくり!!! 意気揚々と併合を発表したプーチン大統領の顔にドロをぬるようなものでしょ。

そこで、賢明でないプーチン大統領に代わって、賢明になった軍部は「もう、あなたについていけません」と言うんじゃないかと、はかない希望を抱いています。

だって、兵隊不足でかたっぱしから予備役という名目をつけて招集したり、武器弾薬も不足気味ということでしょ。これ以上、戦争をやったら、アメリカなどから最新鋭の武器を貰っているウクライナに対し、貧乏クジを引くのはロシアだと分かっているはずですから・・・。

ウーン、でも、これって夢物語なんでしょうね。

だって、ロシアは終戦当時、千島列島を取って北海道も取るつもりだったと思っていた国ですから、国盗りならば初志貫徹・猪突猛進。かってのニッポン国みたい・・・トコトンやるかもしれません。

どうか、夢物語が実現しますように・・・。

ところで、谷川俊太郎さんが作った「平和」という詩があります。ウクライナと違って、わがニッポン国では当たり前となっている平和。大切にしましょうね。    

平 和     谷川俊太郎
   
それは空気のように あたりまえなものだ
それを願う必要はない ただそれを呼吸していればいい

平和
それは今日のように 退屈なものだ
それを歌う必要はない ただそれに耐えればいい

平和
それは散文のように 素っ気ないものだ
それを祈ることはできない 祈るべき神がいないから

平和
それは花ではなく 花を育てる土
平和
それは歌ではなく 生きた唇

平和
それは旗ではなく 汚れた下着
平和
それは絵ではなく 古い額縁

平和を踏んずけ 平和を使いこなし
手に入れねばならない希望がある
平和と戦い 平和にうち勝って
手に入れねばならなぬ喜びがある

嗚呼、国葬

お葬式なるものは、大小にかかわらず、数多く見てきたけれど、国葬を見るなんて、賞味期限寸前・・・ではなくて、使用期限寸前の私にとって、最初で最後のチャンス。だから胸を弾ませて・・・エート、訂正、お悔やみの心を込めてテレビを見た次第です。ホントです。ハイ。

式典で、大型モニターに8分にわたり流された安倍元総理を讃える映像や、岸田総理のアレコレ良いこと尽くしの弔辞に加え、友人代表としての菅前総理の声を震わせながらの追悼の辞をテレビで見ていると、
「安倍さんって、国葬にふさわしい他に類を見ない偉大な政治家だったんだ」と、思ってしまいました。ホントです。ハイ。

外国から来られた方々は、この3本立ての追悼演出を見て「国葬反対が半分以上いるなんて信じられない。ニッポン国民はアホじゃないか」・・・とまで考えなくても「偉大な政治家」と確信して帰ったに違いありません。

特に菅前総理は、ツンツクツンのツンツンで木で鼻をくくったような返事をする人というイメージがあるでしょ。それが心を込めた言葉で、トツトツと話すものですから・・・ウーン、とっても気持ちが揺すぶられて・・・驚天動地!!!

これが、真の菅前総理の姿なら、自身のことを「ガースーです」と紹介された通り、親しみを込めて菅前総理のことを「ガースー」と呼び「原稿タダ読みの菅総理」なんて呼ばなかったに違いありません。

特に、山県有朋が伊藤博文に先立たれ、故人を偲んで詠んだ歌
「かたりあひて 尽しゝ人は 先立ちぬ 今より後の 世をいかにせむ」を紹介して、
「深い哀しみと、寂しさを覚えます」と話したときは、胸キュンでした。ホントです。ハイ。

大体、エライ人の演説はスピーチライターが原稿を書き、エライ人はそれを読むだけという仕組みになっているみたいです。
それで、菅前総理の追悼の辞も、きっと誰かが書いたのだろう・・・なんて、あらぬ疑いをもってはいけません。

国民の大半が国葬反対と言ってるのに、聞く耳を持っているはずの岸田総理がこれを強行。チョンボしたものだから、早くも次期総理は菅さんという声が起きているそうです。

「追悼の辞は本人が書いたもの」だし、「原稿タダ読みの菅総理」なども返上して、きっと、心のこもった政治をやるに違いありません。大いに期待しましょうね。ホントです。ハイ。

エリザベス女王の国葬と安倍元総理の国葬は、違っていて当たり前ですが、イギリスの国葬の荘厳さに目を見張りました。
日本の国葬は、イギリスより多額のお金をかけていますので、日本らしさを感じさせる古式豊かな国葬になると思っていたのですが、儀仗隊の出番を除くと単に「大きなお葬式」にとどまり、特別な演出はありませんでした。
はるばる来日した外国の方たちに「さすが日本の国葬は違う」と、思わせたかったのに残念です。

イギリスでは、弔問に訪れる市民のために、仮説トイレを設置しボランティアも飲み物など用意していました。そして参列した皆さんも整然と何時間も並んでいるのに、わが国は、献花する人たちの並び方さえその場しのぎで、最終列がどこか分からないというお粗末な対応になっていました。

どうも、わが国ではエライ人が来る式典にだけ気を取られ、式典の外にいる「安倍元総理を心から悼む人たち」にも心を配らなければいけないのに、ほったらかしにしてしまったようです。聞く耳をもつだけでなく、シモジモにも気配りを忘れないで下さいね。

ここで、アメリカのミステリー作家 ラりー・バインバートの「最後に笑うものは誰だ」の一節をどうぞ。.

(父のことを葬儀で褒めたたえるので)
「・・・なぜ、飲んだくれだったと言わないのだろう。そう言ってくれれば、少なくとも父のことを言ったことになるのに、わたしたちがこれから埋葬する人が誰かがはっきり自覚できるのに、と思ったわ。ときどき母を打った、となぜ言わないのだろう。おおむね善人だったというのはいい。でも、一生を通じて来る日も来る日も善人だった、瞬時たりとも悪人ではなかった、とは到底いえない人だったわ。

祈り~藤原信也写真展


北九州市立文学館から「祈り~藤原信也写真展」の案内の「ちらし」が送られてきました。
そのチラシの写真を見て「ギョッ!!」・・・ウーン、これってむかし昔の言葉だから、若い人は分からないだろうけれど、訳せば「ドッキリ!!」を超大袈裟風に表現した言葉です。

荒涼とした心が冷えるようなこの写真を撮ったのは、写真家で作家でもあり書家でもある藤原信也。
私、街で見かけるささやかな写真展には、よく足を運ぶけれど、美術館で開催されるような大掛かりな写真展には行ったことがありません。

NHKTVで日曜日の朝「日曜美術館」が放映されるので、遅寝遅起きの私は目覚まし時計を8時40分にセットして、かかさず見ることにしていますが、時々、内外の写真家の展覧会が放映される時があります。私の写真家の認識レベルはその程度。恥ずかしながら、藤原信也さんなる人は未知の人。

展覧会の「ちらし」によると、
藤原信也は北九州市門司区で1994年生まれ。東京芸大在学中にアジヤ各地を漂流し1972年写真とエッセイによる「インド放流」を発表。木村伊兵衛写真賞、毎日芸術賞を受賞。1983年に発表した「東京漂流」はベストセラーとなり、同年に発行された「メメント・モリ」は若者たちのバイブルとなったそうです。

「祈り・藤原信也展特別講演会」が、9月10日に北九州市立芸術劇場小ホールで開かれるとの案内が「ちらし」に掲載されていました。
あんな写真を撮る藤原信也さんで「どんな人?」と思い、定員はたったの100名で抽選と書いてあったが、ダメモトで申し込んだ申し込んだところ、何と当選。

講演会では、最初に北九州市立文学館 館長の今川英子先生の挨拶があり、東京や四国に鹿児島から入場券の申し込みがあったとのことでびっくり。藤原信也さんの大規模な写真展は初めてということで、注目を浴びているみたいです。
藤原信也さんは知る人ぞ知る著名人と知って、講演会の入場券はプラチナ・チケットだったに違いありません。

藤原信也さんは、いつも相手の顔を見ながら話しているので、大勢の人の前で話すのは苦手。講演会で話したのは10年前位だとのこと。
だから原稿なしで思っていることを話すだけという前置きから始まりましたが、とってもお上手。とつとつと話されて、14時から15時の予定が終わったのは15時40分。

多くの人から「回顧展」をという話が前からあり「回顧展」なんて亡くなってから開催するものと思って断っていたが、50年も撮りつづけているので、開催することに同意したそうです。

でも、50年にわたって録った何十万枚の写真から、展覧会に出す写真を選んでいったら、大変な作業とわかり、断わることも出来ず弱っていた時、ふっと浮かんだのが「祈り」。
そうなると、写真を選びやすくなって今日の展覧会にこぎつけることが出来たとのことです。

藤原信也さんは、インドを初めアジヤ各地を旅行し、アメリカでも漂流して、その時々の話をされましたが、摩訶不思議な世界の話を聞いたような気がしました。
それから、写真展で発表している写真をスクリーンに映しながらお話がありました。

写真を撮るということは、単に「物」や「人」を写すということではなくて、対象物に「密着すること」と話されたのが心に残りました。対象とするものの内面というか、そこにある秘めたものを映すという心を持たねば、人の心を動かす写真は出来ないと話されました。

ウーン、全てに通じるお話だと、感銘を受けた次第です。

STAP細胞の疑惑で騒がれた小保方晴子が、つるし上げに近い3時間にわたる記者会見の最後に見せた涙の顔。それをアップした写真がありました。
藤原信也さんは、3時間にわたる記者会見の間、彼女の顔だけを見続けて「彼女は嘘はついていないよ」と、その場にいた記者に話したそうです。
私も、その写真を見て胸を打たれる思い・・・写真の伝える力って凄いんですね。

山口百恵の写真もありました。その写真を見て「これが百恵?」と思ったくらい。彼女が引退した直後に撮った素顔の写真です。心細いといったような、それでいてほっとしたような笑みを浮かべた微妙な素顔は、今までの歌手としての装いを脱ぎ取り、とっても深みのある素敵な写真になっていました。
山口百恵に、この写真を渡したら「私の一番大事な写真にします」と彼女が言ったそうです。

「ちらし」に掲載したのは、東北の下北半島にある「霊場恐山」」とのこと。霞がかかった中で太陽は上がる絶妙の瞬間を取った写真とのことですが「霊場恐山」のイメージにピッタリ。
「恐山菩提寺」の住職に見せたら、「こんな場所があったんですか」と驚かれたそうです。

講演会が終わって「藤原信也さんのサインを貰いたい人は、席に座ったままで順番が来るまで待機して下さい」のアナウンスがありまいた。
私、今まで文学館で開催された作家の講演会があった時は、必ずその場で売られている作家の本を買ってサインを貰っていましたので、買いに行こうと会場を見回したら、ほとんどの人が座ったまま。その時アナウンスあり、
「サインを希望する人が大勢おられますので、サインをもらう順番の遅い方は、いったん会場を出られても結構です」だって・・・。

私、ヤボ用があったので、サインは諦めたけれど、藤原信也さんって凄い人なんだと改めて納得。

展覧会場は、総合商業施設リバーウオークの中にある「北九州市立美術館分館」と「北九州市立文学館」。

会場には大筆で書かれた「祈り」などのいろいろな書が壁に飾られ、美しい風景とか女性の写真はあまりなくて残念、なんてことは・・・思いませんでした。ホントです。
見たことのないような風景の写真が多く、”ニンゲンは犬に食われるほど自由だ”というタイトルのついた写真などには圧倒されました。

心を打たれたのは、瀬戸内寂聴さんのコーナーと香港の雨傘運動のコーナー。

瀬戸内寂聴さんのコーナーには、藤原信也と瀬戸内寂聴さんが長い付き合いのなかで交わされた往復書簡が展示されて、寂聴さんが最後の病に倒れた時、藤原信也さんが寂聴さんに筆で書いた手紙も披露されていました。その文末の文章を紹介います。

心忘れ 心折れ 打ちひしがれ うろたえ 奈落の底に落ち 夢失い それでも 生き 生き 生きている

香港の雨傘運動のコーナーでは、金融街の街路いっぱいに張られたテントと雨傘に目を見張りました。そして凄いのは壁に張られていた1000枚に及ぶポスト・イット。何と書かれてあるのか分かりませんが、すごいエネルギーを感じると共に、運動を展開していたあの若い人たちはどこに行ったんだろうと、心が痛みます。

圧巻は、会場の出口近くに展示されていた縦1m横4mに及ぶ「沖ノ島」の生い茂った樹木をアップで撮った写真。
世界遺産「沖ノ島」は、島全体が宗像大社沖津宮の御神体となっており、「神宿る島」と呼ばれて島への立ち入りが禁じられていますが、30分だけの入島を特別に認められて録った写真だそうです。「凄い」の一言。

講話を聞き、展覧会に行き、ウン、素晴らしい経験をさせてもらいました。

何故?

安倍元総理の国葬をめぐってテンヤワンヤ!!!
当初、政治的テロにより殺されたと思い、国中に悲しみの心が満ち溢れ、民主主義に対する挑戦と報じられたものである。

ところが、どうも犯人は「旧統一教会にひどい目にあわされ、家族が崩壊した」という恨みで、安倍元総理を銃撃したとのことである。
なんと、テロでなく怨恨!!!
旧統一教会に対する恨みが、三段飛びどころか十段飛びに安倍元総理まで・・・すっごく異常なことだが、安倍元総理の旧統一教会とのかかわりが報じられてくると、十段飛びをさせた原因は安倍元総理にもあるじゃないかという空気が流れてしまった。

その結果、テロであれば全国民が哀悼する国葬となるはずが、忘れかけた安倍元総理のアレコレも思い出され「国葬なんて???」となってしまった。
「安倍元総理の死」自体は、その理由を問わず悔やまれることだから「国葬」という形にとらわれず、すべての人が「その死を悼む」ような葬儀にしたら、国を二分するようなみっともない騒ぎを、世界にさらすこともなかったであろう。

この事件で、政治家のオエライさん達の旧統一教会とのかかわりがバレて、皆さん一斉に「そんな団体とは知らず祝電や出席をしました」なんて、シラーとした顔で云っているが、これも「???」である。

私、今までいろいろな団体の式典に出たことがあるが、そこで披露される政治家のオエライさんの祝電は、
「式典の開催をお喜び申し上げます。今後のご発展をお祈り申しげます」なんていう単純なものでなく、その団体と式典の内容について、熟知していなければ書けないようなほれぼれするような内容の祝電である。多くの祝電の中で、一番長いのは、もちろん政治家のオエライさん達の電文。

私などの凡人は「国会議員から祝電が来るなんてスゲー団体なんだ!!」と感心するし、祝電とか出席したオエライさんは「これだけ称えたのだから、選挙の時は投票してくれるに違いない」と、呼んだ方も呼ばれた方も一挙両得、出席すれば一挙十得でホクホクするような仕掛けになっている。

でも、旧統一教会が政治家を応援するのは、当たり前のことである。多くの宗教団体や労働組合をはじめいろいろな団体・企業も贔屓の政治家を応援しているのが現実である。

私などは、60年前、入社してすぐ市長選挙が行われ、会社が応援する候補者のため、会社で「青年行動隊」が結成され選挙事務所に派遣されたことがある。
嬉しいことに法外な交通費をもらい、車を1台あてがわれやった仕事はビラ配布。事務所では飲み放題&食べ放題。選挙が終わって当選すると、ご褒美に当時開催されていた「大阪万博」に行かせてもらったという、すっごくおいしい経験をさせてもらった。
その時、選挙事務所にいたものだから、選挙のウラのアレコレを知り、私は若くして「選挙は政策ではなくて利害関係で決まる」と思い込んでいる。

応援するのは、私の会社の社長のように、候補者にホレこんで純真に応援するケースもあるかもしれぬ。自分の考えと同じ考えの政治家であれば、応援したくなるのも当然のことである。政治家を応援すること自体は、別にやましいことではない。

ただ、旧統一教会は霊感商法をやったということで責められているが、政治家の皆さんは「霊感商法」は知っているけれど、もう30年前のことだし、今はやっていないのだからもう時効でしょ。・・・という理由で応援して貰ったに違いない。なにしろ、選挙に落ちれば「タダの人」になるんだから、なりふりかまわずやる。この落差ってスゴイ!!!

旧統一教会の巨額献金は、弁護士による相談所が設けられていたことから、すでに周知の事実となっていたらしい。もし、メディアが従前からこのことを報じていたら、犯人の母親の献金も止められ、安倍元総理も死なずにすんだかもしれぬ。

メディアが、この事実を報じなかったのは、何故?

事件の発端となった肝心かなめの宗教団体の名前を、メディアは「特定の宗教団体」とだけ報じ、待ちきれずに3日後にスッパ抜いたのは、なんとウェブマガジンの「現代ビジネス」や写真週刊誌「Smart FLASH」など、出版系サイトである。

3日間もメディアが沈黙していのたは、何故? 
そして、その理由を明らかにしないのは、何故?

本件に関して、何か不気味なものを感じている。

※ 7月15日のプログ「想定外です、ハイ」も読んで頂けたら幸甚です。

声なき声に耳をすませて

NHKテレビの8月8日に放映された「声えなき声に耳をすませて 吉永小百合とともに」に吉永小百合さんが出演しました。
私は、むかし昔のそのまた昔の昔からの彼女のファン。久しぶりに彼女と会える・・・エート、テレビ越しだけれど・・・とあって、胸ドキで番組を見たのは当然のコンコンキチです。

長野県上田市にある戦没画学生慰霊美術館「無言館」の入り口に、まっすぐな視線で立つ裸婦を描いた絵が飾られてあるそうです。
この絵のモデルとなった女性が絵と半世紀を経て再開し、その心境を「感想文ノート」に綴りました。
その文章を、吉永小百合さんが「裸婦」の絵を前にして朗読しました。

絵を描いたのは鹿児島県・種子島(南種子町)生まれの日高安典さん。開戦となった1941年12月、東京美術学校(現東京芸術大)を繰り上げ卒業。
翌年4月に応召された時、恋人の裸婦像を描き始め、描き切っていないとの思いで、
「必ず生きて帰ってこの絵の続きを描くから」と言い残して戦場に赴いたけれど、フィリピン・ルソン島で45年4月に戦死。 享年27。

この絵のモデルになった女性の手記を読む吉永小百合さんの語りを聴いていると、吉永小百合さんはモデルになった女性の想いに染められて、話しているのは吉永小百合さんではなくて、まるでその女性が日高安典さんに語り掛けているようでした。

「日高安典さん、日高安典さん」と何度も呼びかけるその声は、切なくて切なくて心に響き、私、胸ジーン。

吉永小百合さんの朗読が終わって「無言館」の館主 窪島誠一郎さんと対談がありました。
会場に来ている人を前に、窪島誠一郎さんは「戦争で命は失われても、作品が残っている限り、彼らは死なない」と、そして「無言館」に来て戦死した画学生の想いを感じとって欲しいと話しました。
そして、誰でも「戦争は駄目」と思っていても、その想いを伝えなければ「その想いはない」のと同然だし、多くの戦争体験を伝えなければ「戦争はない」ということに等しい、「不在の罪」であると力説されました。

吉永小百合さんも、その想いを「原爆の詩」の朗読に託して、多くの人々に伝えているに違いありません。

今日は8月15日。終戦記念日です。私も、毎年8月15日のこのプログには、戦争や原爆、平和についての「詩」を掲載しています。
最初の年の2004年8月15日のプログは、美空ひばりの歌った「1本の鉛筆」の歌詞を掲載しています。美空ひばりが「反戦歌?」 ・・・と、お思いの方は、2004年8月15日のプログをお読みください。

この「夢旅人」のプログは、毎月4万~5万件のアクセスがあります。「無言館」に行くことが出来ない方々に、「無言館」の窪島誠一郎館長のご挨拶を紹介したいと思います。

 館主ご挨拶

あなたを知らない

遠い見知らぬ異国で死んだ画学生よ
私はあなたを知らない
知っているのはあなたが遺したたった一枚の絵だ

あなたの絵は朱い血の色にそまっているが
それは人の身体を流れる血ではなく
あなたが別れた祖国のあのふるさとの夕灼け色
あなたの胸をそめている父や母の愛の色だ

どうか恨まないでほしい
どうか咽かないでほしい
愚かな私たちがあなたがあれほど私たちに告げたかった言葉に
今ようやく五十年も経ってたどりついたことを

どうか許してほしい
五十年を生きた私たちのだれもが
これまで一度として
あなたの絵のせつない叫びに耳を傾けなかったことを

遠い見知らぬ異国で死んだ画学生よ
私はあなたを知らない
知っているのはあなたが遺したたった一枚の絵だ
その絵に刻まれたかけがえのないあなたの生命の時間だけだ

1997・5・2(「無言館」開館の日に)

※無言館ーー上田市古安曽字山王山3462 電話0268-37-1650。第二次世界大戦中、志半ばで戦場に散った画学生たちの残した絵画や作品、イーゼルなどの愛用品を収蔵、展示しています。