仁義なき戦い

石破総裁が辞職した。

国会議員のオエライさんの頭にいつもあるのは、天下国家のこと・・・ではなくて、選挙に当選することである。選挙に落ちればタダの人。だから仕方あるまい。

大嫌いな石破さんを総裁にしたのは、世間で一番人気があったからである。石破さんを総裁にして選挙を戦えば勝てると思ったからで、石破さんの主義主張に賛同した訳ではないのである。

ところが、青息吐息の結果となって、大嫌いだった石破さんをわざわざ総裁に祭り上げた理由がなくなり「石破憎し」となって、声をそろえて「石破おろし」。
石破さんの口を封じたオエライさん達の責任は棚に上げて、みっともないなんてありゃしない。まるで子供の喧嘩である。

「企業だって赤字になればトップが辞職するのが通例」とのことだが「利益を追求する目的の企業」と「天下国家の安泰を目的とする政党」は、同類と思っているに違いない。企業と政党とは「立ち位置」が全く違うとは思わないのかしらん?

「天下国家の安泰を目的とする政党」に属していると思っているオエライさんは「政治家」だが、「利益を追求する目的の企業」と同じと思っているオオエライさんは「政治屋」であるに違いない。自分の懐を増やすために、パーティ券の売り上げを猫ババしたしたオエライさんや、秘書の給料を猫ババするオエライさんは「政治屋」さん。

党内を分割しかねない両院議員総会をやっても総理を引きずり下ろし、手間暇かけて新しい総裁を選び、それから国会を開き総理に選出して・・・この大事な時に3ケ月もわがニッポン国を空白状態にしても平気の平左。
世界は激動の真っ只中にあるというのに、わがニッポン国は平和なんですね。ホント、幸せを感じなければなりません。

ここで、自民党は大反省。身内の足の引っ張り合いで世間に迷惑をかけることになったら申し訳ないと、選挙に負けたのは石破さんの「有言不実行」が原因だったので、ここで乾坤一擲。石破総理のもとに一致協力して石破イズムを復活させ、直ちに直近の問題解決に取り組む姿勢をみせたら、「負け戦のショック療法で自民党も変わるんだ」と、世間が思うかもしれません。

前回の総裁選で石破さんに敗れた5人の超オエライさん達が、待ってましたとばかり敗者復活戦に登場!!!
古き良き時代の自民党の超オエライさんの顔見世興行みたいで新鮮味ゼロ。前回の総裁選の復刻版を見せられるのではないでしょうね。

総理大臣になるチャンス到来とばかり「石破おろし」に走った・・・のではありませんよね。ハイ。
なんとなく礼節に欠ける感じ・・・ではありませんよね。ハイ。

かくして、激烈なる身内の足の引っ張り合い・・・ン? 失礼、論戦を戦わせるだろうが、オエライさん達は選挙に勝つためには大嫌いな石破さんを選んだ位だから、立候補者の政策いかんにかかわらず人気がある人を選ぶい違いありません。

乞う、ご期待!!!

了見狭いねェ・・・

原爆の日の8月6日、石破総理は広島市で開催された平和記念式典に就任後初めて出席し、その挨拶で被爆した歌人正田篠枝さんの代表作「太き骨は先生ならむ そのそばに 小さきあたまの骨 あつまれり」を引いて追悼したそうである。

私、平和記念式典のTV中継は見ていなかったが、それを見ていた知人の女性が、石破首相がこの句を引用した時、ウルッとしたそうである。彼女はアンチ自民党だが、心をウルッとさせたって聞いて、私、大ビックリ!!!

大体、どんな大会でも総理の挨拶っていうのは、頭脳明晰なエライ人が建前論に基づき書いた無味乾燥な原稿を読むものと思っているが・・・ン? 失礼、エート、たまには自分の考えも入れて添削したうえで読むものと思っているが・・・石破総理の引用した句は、どうも自分の心に感じた想いを詠んだものと思われた。

私、とっても年寄りだから感受性も鈍くなりウルッとはしなかったけれど、チョッピリ感心した次第である。

村山内閣が1995年の戦後50年終戦記念日に首相談話を出して以来、60年に小泉内閣、70年には安倍内閣で首相談話が出されている。
特に安倍総理の70年談話は、将来の世代に「謝罪を続ける宿命を背負わせてはならない」と、謝罪に終止符を打つ未来志向の内容ともなっていて、歴史認識を巡るこれまでの首相談話の集大成となっているそうである。

シンガポールでは、日本がシンガポールを占領した2月12日を「総国防の日」として、夕方にサイレンが全土に鳴り響くとのこと。
「もし、許しを求められれば許すべきだか、決して忘れてはならない」として定められたそうである。これは恨み続けるという意味ではなく、再び許す必要がないように記憶するためとも言われている。

今年は戦後80年の節目の年。てっきり石破首相談話が出されるかと思っていたら「首相談話は、集大成となっている70年の安倍談話で打ち止め」と決定。石破総理は出す必要ないとなって8月15日の首相談話はスルー。

石破総理は、ニッポン国で一番エライ人である。その人が談話を出したいというのであれば、ダメという権限をもつ人はいないと思ったが、なにしろ「自民党の方針」と言われたら従うようになっているらしいから仕方あるまい。

しかし、自民党に従順な石破総理が、なんと今回は「首相談話がダメなら個人談話を出したい」と反抗。それもダメと脅されているらしいが、わがニッポン国には言論の自由はないのかしらん。自民党って了見狭いねエ・・・。

私、石破首相談話を聞きたかったのに・・・。

 

口にすることは出来ない

8月15日は敗戦記念日、ン? 訂正、終戦記念日。毎年、この日の「夢旅人」には、戦争や原爆にちなんだ記事を掲載している。

今年は戦後80年の節目の年とあって、多くの行事が開催されているが、北九州市立文学館でも「ペンと戦争ー火野葦平、林芙美子の場合」というタイトルで、戦時下の文学者の姿を見つめ直そうという特別企画展が開催された。

7月19日の開会式の案内状が届いたので、私、暑さにもめげずイソイソと参加。
開会式では、武内和久市長に続き今川英子文学館館長の挨拶、中村義雄市議会議長の来賓挨拶の後、テープカットがあって特別企画展がオープン。学芸員さんの説明を聞きながら見ることが出来た。ただ見るだけでなく説明付き。これって、参加者の特典。すこぶる素敵付。

特別企画展には、昭和12年(1937年)に中国に侵攻した日中戦争から始まり、太平洋戦争を経て昭和20年(1945年)の終戦にいたる8年間の戦争に、北九州市にゆかりのある作家、火野葦平と林芙美子が従軍作家として参加したそうである。
その時に書いた原稿や従軍日記に手紙、創作ノートのほかに出版された書籍など約170点もの資料が展示されていた。

美術館が開催する美術展と違って、文学館の企画展で対象とする資料は、広範囲にわたって限度がないと察するが、会場には「エッ、こんな資料も!」と思わせる展示がもり沢山!!!
「よくぞ集めた」と学芸員さんたちの努力に感じ入ってしまった。

この特別企画展開催にあたり「ペンと戦争」というタイトルでA4判の記念誌が発行されていた。
記念誌には、企画展で展示されている主な資料が写真でコメントをつけて掲載されており、時代背景の説明とあわせと読むと、企画展の全貌が分かる仕組みになっていた。
「忘れっポイ」のが私の特技だが、これ読むと「忘れっポイ」をポイすることが出来る。ウフフフ・・・。

私、昭和13年(1936年)生まれ、戦争の記憶などまったくない。この記念誌にコンパクトにまとめられた8年間の戦争の記録を読むと、断片的にしか知らなかった日中戦争と太平洋戦争の概要が分かったような気がした。その意味でも貴重な資料ともいえる。

開会式終了後、五味淵典嗣早稲田大学教授から「戦場を見つめるー火野葦平・林芙美子の日中戦争」と題しての開会記念講演が開かれた。
火野葦平の「麦と兵隊」、林芙美子の「私の従軍日記」、石川達三の「生きている兵隊」の作品の中に書かれた文章をスクリ-ンに写しだして、五味淵先生が朗読しながらの講話だった。

火野葦平は従軍作家である。だから書くにあたって軍部から「心に感じたことを書くのではなくて軍人の眼で書くと共に、日本軍が常勝で、中国軍は憎悪すべき相手として書き残虐な場面など書いてはならない」と指示されていたそうである。

それで、火野葦平の「麦と兵隊」でも出版にあたり検閲された結果、不適格と思われた27箇所が削除されており、その削除された箇所の中に3人の中国兵を斬首する箇所があったそうである。
しかし、「私は眼を反らした。私は悪魔にはなっていなかった。私はそれを知り、深く安堵した」という文章は、何故か残されていたとのこと。前の文章がカットされていたたため意味不明になってが、「戦争はダメ」という火野葦平の気持ちがこの文章で分かった気がした。

林芙美子はペン部隊の一員として上海に行き、無残に破壊された街を見て「私の従軍日記」の中で、
「石にしがみついても、敗残国になってはならない。絶対に戦争には勝たねばならぬ」と書いたそうである。
これは「戦争をしてはならぬ」と書きたかったが、「戦争に勝つ」という表現しか出来なかった林芙美子の心を推しはかることが出来るという五味淵先生のお話であった。

五味淵典嗣先生は「戦争はダメという自分の心を封印して、文章を綴らなければならなかった」という火野葦平と林芙美子気持ちが、制約された条件のなかでも察することが出来るとのお話であった。
書かれなかったことに真実があったのである。

ペン部隊として、戦地に派遣された石川達三の「生きている兵隊」も紹介された。
「自覚がなくても、残忍な行為が出来る。普段の日常であったら、考えもしなかったようなことが出来る。それが戦場」と書き、火野葦平や林芙美子と違い、小説とはいえ残酷で悲惨な戦場の様子をありのままに書いたため、発売と同時に発禁処分となったそうである。

最後に「火野葦平と林芙美子は〝上から見た戦場を書いた作家〟、石川達三は〝地べたから見た戦場を書いた作家〟」と話されて講話を終えました。

火野葦平は昭和35年(1937年)に自死。遺言はなかったので自死の理由はわからないとされている。
火野葦平は、従軍作家として戦争に加担したという自覚と、戦地で見聞きした行為に対して感じた心の重みに耐えかねて自死したに違いないと、この講話を聴いて思った次第である。

戦争が終わって出征していた父親や子供が帰還してきたが、戦場のことは決して口にすることはなかったと聞いている。「口にすることは出来ない」という心の闇は察してあまりある。
「戦争をしてはならないと」いうことを、身体で実感した兵士の想いを受け続いていかねばならぬと思う。

※ 掲載したポスターの写真は、左2人目から、林芙美子、片岡鉄平、久米正雄、火野葦平。

世も末デス

参議院選挙で自民党惨敗。
かくして、自民党のオエライ先生さん達から「石破総理、辞めろ」の大合唱が起きた。

石破さんを、自民党の総裁に選んだのは「石破さんは国民に人気がある。選挙になった時は、石破人気にあやかって勝てるに違いない」とオエライ先生さん達が思ったからである。

石破さんが人気があったのは「与党内野党」だったからである。
自民党のオエライ先生さん達が「選挙に勝つため見境もなく旧統一教会にすり寄ったり」「パーテイ券の売り上げをネコババしたり」するなど、そんな非常識きまわる行為を平然とウン10年もしていた自民党の風土を、彼が正してくれると共に「石破カラー」を打ち出して自民党を一新してくれる思ったからである。

ところが、石破さんが総裁になった途端、オエライ先生さん達は寄ってたかって「これが自民党の方針です」とのたまって石破さんの「石破カラー」を封じてしまい、石破総理は「与党内与党」に変貌させられ「有言不実行」のモデルになってしまった。
どうも、自民党のオエライ先生さん達は、「与党内野党」の石破さんを総裁に選んだ時の気持ちを忘れてしまったらしい。

「石破カラー」なしの自民党を国民のみなさんがソッポを向いたのは当然であろう。自民党惨敗の事態を招いたのは、「石破カラー」を出させなかった自民党のオエライ先生さんのせいでもある。
だから、自民党惨敗を招いた責任の半分は自民党のオエライ先生さんにもあるのに、自分たちの責任をホッポリ出して「負けたのは石破総裁のせい」と言って恥を知らない。

そりゃ、石破総裁に責任がないわけではない。
石破総理「一見、頑固一徹」風。だから、「自民党をブツ壊せ!」と絶叫した昔の小泉総裁のように強力を振るうと思っていたのに、なんと「よくよく見れば、頑固ムナャムナャ」風。自民党は目出度く「元の木阿弥」に戻ってしまった。

ここで自民党のオエライ先生さん達の言うように、石破総裁が辞めたら今度の自民党総裁は、前回総裁選挙に出た超オエラいイ先生方々が立候補するはずである。
その方々は「選挙に勝つため見境もなく旧統一教会にすり寄ったり」「パーテイ券の売り上げをネコババしたり」していた風土に違和感なくドップリ浸かっていた方々だから、目出度く「元の木阿弥」が継続して続くことになるだけであろう。

総理になるには、国会で選出されねばならぬ。
野党の皆さん、念願の「政権交代」が実現する絶好の機会到来!!!
そこで野党の皆さん一致団結し、「大同小異」につき、野党第1党の野田さんを総理候補にすれば、多数決で野田さんが総理になるのは間違いない。かくして、野党のオエライ先生さん達は大臣のポストを手に入れると共に、全ての野党の公約を片っ端から議決して実行するという夢にまで見たことが実現するのである。万々歳!!!

・・・と、なればいいけれど、野党の皆さん、公約は「絵に描いた餅」もあるので、これが実行できるなんて思ってもいなかったし、多種多様な外国に伍してニッポン国を運営する自信もないので、総裁選にはそれぞれの党の党首が立候補して、結局は自民党の総裁が総理大臣になるであろう。

かくなるうえは、少数野党の自民党は、野党と連合を組まざるをえないが、野党の皆さんは、自民党をボロクソにいっているけど、やっぱり大臣になりたい人はいるだろうから連立政権が成立し、そのうち公民党のように「自民党化」していくに違いない。

でも、ここで石破総裁も猛反省し「よくよく見れば、頑固ムナャムナャ」風から、本来の「よくよく見直せば、頑固一徹・有言実行」風に舞い戻り、断固、総理の椅子にしがみついて「石破カラーを実現させる」と吠えれば状況一変するけれど・・・。

ウーン、まあ無理。わがニッポン国は、古き良き時代の自民党にお任せするしかありません。めでたし目出度し!!!

自由に俳句を・・・

北九州市立文学館友の会の「令和7年度総会」が6月28日に文学館で行われた。
私、文学については「ド素人」。それでもなんと「会員」である。だから当然なれど総会の案内状がくる。

総会というものは、問題を抱える会社や団体の総会は別として、いたって無味乾燥。聞いたってしょうがないという訳で出席者が少なくなる。

そこで、わが文学館友の会は講話の抱き合わせを行って
「講話を開催しますから、そのついでに総会にも出席を・・・」ン? これ間違い。
「総会を開催しますから、そのついでに講話にも出席を・・・」という趣旨で、今年は
現代俳句協会副会長の福本弘明先生の「現代俳句を楽しむ」という講話が開催された。

福本弘明先生は、俳句が成立する前の「古代歌謡」から「狂歌」や「和歌」「連歌」などの説明をされた後、
俳句は、単に自然を詠むだけのものではないということで、松尾芭蕉も「四季のみならず、恋、旅、名所、離別等、無季の句もある」と言っているそうである。ホント、びっくり!!!

かくして俳句には「自由律俳句」に「客観写生・花鳥諷詠」「新興俳句」「前衛俳句・社会性俳句」「俳句自由」「現代川柳」などのジャンルがあって、それぞれの句を幾つか紹介されたが、その中から私好みの句を紹介します。

自由律俳句ーーまっすぐな道でさみしい。 種田山頭火
客観写生・花鳥諷詠ーー遠山に日の当たたる枯野かな 高浜虚子
新興俳句ーーラガーらのそのかち歌のみじかけれ 横山白虹
前衛俳句・社会性俳句ーー彎曲し火傷し爆心地のマラソン 金子兜太
俳句自由ーーはははははハハハハハハハ歯歯歯歯歯 堀田季何
現代川柳ーー五月闇生みたい人の子を産まず 時実新子

「ウーン」と大納得。目からウロコ。
私、俳句で知っている句と言えば、松尾芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」位のものである。
「蛙飛び込めど音もなし」となれば、「ン? それはないでしょ。何故?」と考え込むけれど、
これが「蛙飛び込む水の音」・・・そりゃそうでしょ。当たり前である。私、この句のように「四季の自然を見てそのまま詠む」ものだと思い込んでいたのである。詠む人の心は表れていないと思っていた。

ところが、福本弘明先生曰く「五七五の文字の中に、詠む人の心が必ず入っている字があります」と説明された。
エ? そうなの?・・・と思ってよくよく見直したら「古池や」の文字!!!
「蛙飛び込む水の音」はただの説明文だけど「古池や」があって「こんもりとした森の中の小さな池」が浮かびあっがてくるのである。これがただの「池」や「小池」ではダメで「古池」でなくてはならぬ。
「古池や」に込められた松尾芭蕉の思い・・・。ウーン、今から俳句も興味をもっって読むことにしよう。

講話が終わって、福本弘明先生が出版された句集「梨の木」を、3冊しか持ってきていないがお売りしますとのことで、先生のファンになった私は、さっそく買い求めたところ、なんと先生の句まで毛筆で書いて頂き「落款印」まで押して頂いた。嬉しさのあまり大感激・大興奮・大ラッキー!!!

先生の書かれた句「凡夫ゆく西も東も恵方道」。先生の想いはきっと「恵方道」。調べてみると「恵方道」とは 新年に恵方詣で参詣に向かう道のことを云うそうである。私も先生にあやかって、今年もいい年でありますようにと願うことにしよう。 

最後に、句集「梨の木」から私好みの句をどうぞ・・・。

のっけから火中の栗の後始末
早起きの苦手な君へ蝉しぐれ
六畳の一間ふたりの春灯

※福本弘明ーー1955年小倉生まれ。一般社団法人現代俳句協会副会長、福岡県俳句協会会長、句集に「桜堂」ほか。