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2025年10月。驚き桃の木山椒の木の出来事が二つも勃発!!!
初の女性の自民党総裁誕生と公明党の連立離脱。

私、自民党の総裁選は、候補者の主張を参考にして投票するのではなく、総選挙で落選すれば「タダの人」になるから、世間で人気のある人・・・ウン、小泉さん・・・に投票するものと思っていた。それがなんと高市さん!!!

どうも、世間に人気のある人ではなく、自民党員に人気がある人に投票したみたいである。オエライさん達は、地元の意向に従わなければソッポを向かれると思って投票したに違いない。
でも、私、総選挙の時に投票するのは、自民党員だけでなく世間一般の人。だから、地元の自民党員の意向如何にかかわらず、世間に人気がある人に投票すると思っていたのに、何たる勘違い!!! 私、アホみたい。

自民党は派閥を解消したと云っていたのに、唯一残っていた麻生派閥のボスの一声で、その派閥に属するオエライさんたちが「右へ並べ」とばかり高市さんに投票したらしい。
たった一つの派閥の意向で総裁が決まるって、なんとスゲー!!! ウーン、派閥って解消してなかったんだ。 

それはともかく、わがニッポン国に「女性総理」が誕生するかもしれないってこと、これってスゴクってステキなことなんですね。
内閣に女性が占める比率は、G7各国では高い順にドイツが50%に続きカナダ49%、フランス35%、英国とアメリカが33%、イタリア27%、日本はたったの8%。
それが大臣ではなくって、一足飛びに「総理大臣」が誕生するかもしれないってことですから、ここで汚名返上。全国の女性のみなさん、バンザイばんざい万歳と大はしゃぎしなくてはなりません。

ところがなんとなくサメータ感じ。

高市さんの当選の挨拶で「ライフワークバランスという言葉を捨てて、働いて働いて働いて働いていく」と勇ましく発言した模様がテレビで放映された。
「ライフワークバランス」とは「仕事以外の生活」と「仕事」との調和をはかるということでしょ。今や、わがニッポン国も「ライフワークバランス」をとっていこうという風潮になっている。

それなのに、全国のテレビを見ているみなみなさんの前で「ライフワークバランスを捨てる」・・・なんてことを云ちゃアおしまいよ、という気がするけど、天下の総理になったつもりの高市さんの厳しい顔つきを見ると、エライ人と女性に弱いと自負している私などは「ハハーッ、仰せの通り」と云いたくなる。
高石さんがその気になって仕事をしてくれるのは大感謝だけれど、それは自分の心に秘めてテレビの前で広言すべきものではないと思う。

高市さんは「安倍さんの継承者」と言われている。自民党のキャッチフレーズ「変われ自民党」は、石橋さんの「リベラル派」から安倍さんの「強固な保守回帰」に変わるということらしい。
「失われた30年」と云われているのに、アベノミックスを復活させ「古き良き時代に戻る」というつもりであろう。

ところがである。なんと公明党は連立を離脱すると表明。私、口、アングリ!!!

そりゃァ、高市さんが公明党に当選した挨拶に行った時に、公明党から「連立の3条件」が提示されたにもかかわらず、その返事をせずに公明党をそっちのけで国民民主党に接触したり、パーテイー券を猫ババした人もジャンジャン登用すると話したり、パーテイー券最大の猫ババをした超エライ人を幹事長代行にしたりすれば、公明党がアッタマにきたのは当然であろう。

そして、連立離脱の会合後に、高市さんが「一方的に離脱すると云われた」と、憤懣やり方ない顔で話したけど、26年も連れ添った仲間だから、せめて
「残念だけど仕方ありません。長い間お世話になりました。ありがとうございます」と、大人の対応をしてもいいのじゃないの?・・・エッ、何? 「それは無理。裏切られた女の気持ちを分かっていない」だって・・・。フーン、そうなんだ。

これで、熱望し待望した女性総理が遠のくような気がしたが、そうは問屋が下ろせない。
野党のみなさん、千載一遇の政権をとれるチャンスなのに、てんでバラバラ。政権をとれば、封印されていた政策を実現することが出来るのに、
「我が党の理念に一致してもらうことが条件」とのこと。

いくら立派な理念を掲げても、政権を取っていなければ「絵にかいた餅」。だから政権を取って政策を現実化させながら、お互いの理念のすり合わせをしたらいいと思うけど、短時間で理念を変更させるのはとっても無理。変更出来ないと承知のうえで言っているのであろう。

ウーン、どうも政権を取っても、トランプさんに対応したり、わがニッポン国のああでもないがこうでもないという難題に対応する自信がなのかもしれぬ。。

かくして、少数ながら最大多数を占める自民党が政権をとり、目出度く待望の女性総理が誕生!!!
ここで、バンザイばんざい万歳と大はしゃぎしなくてはならないけれど・・・ウーン、はしゃいでいいの???

スーパースターの失敗って・・・

私、87歳。その私が一番好きなミュージシャンと言えば、男性では井上陽水。それからさだまさしに吉田拓郎、矢沢永吉に宮本浩次とか・・・。

矢沢永吉ってロックでしょ。ロックとはほど遠い年齢の私が「どうして永ちゃんなの?」と疑われるだろうけれど、ハイ、そのとおり、私、爆音を鳴らすロックは苦手なんです。

でも、むかし昔40台の頃、私が華の東京で花の単身生活を送っていた時、ラジオから「東京」というメロデーが流れ、それがとっても心に沁み「ウーン」と感じ入ってしまいました。
その「東京」を歌っていたのは矢沢永吉。

この曲はロックバラード。以来、矢沢栄吉のファンになってしまった。バラードを歌わせたら、彼が一番と思っています。エート、女性では和田アキ子が一番。
彼、76歳だけど、80歳になった時に歌うバラードか、出来ればルイ・アームストロングようなブルースを聞きたいものですが、私、4年後は91歳。ウーン、その時は赤ちゃん返りをしているか、別世界に行っているでしょうからダメか・・・。残念!!!

今年9月にソロデビュー50周年を迎える矢沢永吉を記念して、NHKテレビで特集番組が2本組まれました。

8月14日にNHKテレビの「The Ⅽoversスペシャル」で「矢沢永吉ナイト!」が放映。
リリー・フランキーと上白石萌歌のⅯⅭでゲストにクレイジーケンバンド・HEMISTRY・一青窈・Rei・鞘師里保が出演しました。
矢沢永吉が歌うシーンも流れる中で、ゲルトの皆さん「時間よ止まれ」など私の好きなバラードを歌ってくれて、私、すこぶるご満足。独特の永ちゃん節を歌うのは難しいと思ったけれど、それぞれ自分のものにして歌いスゲー感いっぱい。。永ちゃんの面影を残しならの「矢沢永吉の曲」を聞くことが出来ました。

9月1日にNHKテレビの「NHK MUSIC SPECIAL」で「矢沢永吉 ヤザワ×イチロー~俺たちの失敗」が放映されました。
この番組って凄い!!!
成功いっぱいのロックのスーパースターと野球のスーパースターとの対談タイトルが「俺たちの失敗」だなんて・・・。

矢沢永吉は「失敗だらけの人生」だったとのこと。オーストラリアに建設予定だったスタジオをめぐって35億円の借金を背負うことになったそうである。しかし、この借金を返すことで信頼という財産を築くことが出来た、失敗を失敗で終わらせないことで、今の自分があると言い切っていました。

イチローは、他の人から見ると「それ失敗だよね」と思っているかもしれないけれど、自分は「失敗はない」という感触なんですと話されました。
これって、スゴイですね。さすがイチロー・・・です。

矢沢永吉が76歳になってでもロックをやり続けていることについて、ミック・ジャガーなど年上の海外アーティストが今も現役を続けているのをみて「生きるために止めないでいるんだ」ということが分かったそうである。
体力的にダメになったら止めるしかないが「止まらないことは生きること」と、断言しました。

イチローもそれに共感。「僕も止まれないんですよ」と云い、「何もしないでいるということは出来ない」とのことでした。
私、お二人とも「やり続ける。引退はない」と分かって安堵した次第です。

最後に矢沢永吉「これからは、ゆったりした曲も歌っていきたい」と話していました。ウーン、私もお二人に見習い「このプログも止めないで」92歳まで生きて、永ちゃんのバラードを聴きたいデス。

スーパースター二人の90分に及ぶ対談で「失敗を失敗とは思わない」との話に、失敗だらけの私も、すっかりド安心!!!
エ、何?「そう八さん、スーパースターではないでしょ。そう八さんの失敗は、ホントまじ失敗」だって・・・。
フン!!!

仁義なき戦い

石破総裁が辞職した。

国会議員のオエライさんの頭にいつもあるのは、天下国家のこと・・・ではなくて、選挙に当選することである。選挙に落ちればタダの人。だから仕方あるまい。

大嫌いな石破さんを総裁にしたのは、世間で一番人気があったからである。石破さんを総裁にして選挙を戦えば勝てると思ったからで、石破さんの主義主張に賛同した訳ではないのである。

ところが、青息吐息の結果となって、大嫌いだった石破さんをわざわざ総裁に祭り上げた理由がなくなり「石破憎し」となって、声をそろえて「石破おろし」。
石破さんの口を封じたオエライさん達の責任は棚に上げて、みっともないなんてありゃしない。まるで子供の喧嘩である。

「企業だって赤字になればトップが辞職するのが通例」とのことだが「利益を追求する目的の企業」と「天下国家の安泰を目的とする政党」は、同類と思っているに違いない。企業と政党とは「立ち位置」が全く違うとは思わないのかしらん?

「天下国家の安泰を目的とする政党」に属していると思っているオエライさんは「政治家」だが、「利益を追求する目的の企業」と同じと思っているオオエライさんは「政治屋」であるに違いない。自分の懐を増やすために、パーティ券の売り上げを猫ババしたしたオエライさんや、秘書の給料を猫ババするオエライさんは「政治屋」さん。

党内を分割しかねない両院議員総会をやってでも総裁を引きずり下ろし、手間暇かけて新しい総裁を選び、それから国会を開き総理に選出して・・・この大事な時に3ケ月もわがニッポン国を空白状態にしても平気の平左。
世界は激動の真っ只中にあるというのに、わがニッポン国は平和なんですね。ホント、幸せを感じなければなりません。

ここで、自民党は大反省。身内の足の引っ張り合いで世間に迷惑をかけることになったら申し訳ないと、選挙に負けたのは石破さんの「有言不実行」が原因だったので、ここで乾坤一擲。石破総理のもとに一致協力して封印させていた石破イズムを復活させ、直ちに直近の問題解決に取り組む姿勢をみせたら、「負け戦のショック療法で自民党も変わるんだ」と、世間が思うかもしれません。

・・・てな考えはコレッポチもありませんという訳で「両院議員総会」をやるかどうかを、オエライさんの投票で決めることに決定。
内閣の一員となっているオエライさんは、当然「開催反対」の票を入れるだろうが、内心「開催賛成」と考えているオエライさんも居るだろうけど、さすがに立場上「開催賛成」とは言えないから、投票はしないだろうと思っていた。

ところが、なんと内閣の一員となっているオエライさんが「私、議員の一員でもありますので賛成」と臆面もなく登場して、私、ア然!!!
内閣の一員として登用してくれたのは、親分である石破総裁でもある。その親分を「裏切る」なんて、それもコッソリと身内に話したのではなく、堂々とテレビの前で発表するなんて、まるで「裏切る」のではなく「表切る」

わがニッポン国は、礼節を重んじる国だと思っていた。国民の代表であるオエライさんに節度がないなんて・・・。信じられる?

かくして、身を引くことでみっともない「両院議員総会」を避けることが出来るのであればと、石破さんが決意した結果、総裁選開催が決定。
前回の総裁選で石破さんに敗れた5人の超オエライさん達が、待ってましたとばかり敗者復活戦に登場!!!
古き良き時代の自民党の超オエライさんの顔見世興行みたいで新鮮味ゼロ。前回の総裁選の復刻版を見せられるのではないでしょうね。

総理大臣になるチャンス到来とばかり「石破おろし」に走った・・・のではありませんよね。ハイ。

かくして、激烈なる身内の足の引っ張り合い・・・ン? 失礼、候補者のみなさん、おいしい話を並べ立てるに違いない。でも、どの候補者を選んでも、どうせ五十歩百歩。
普通のオエライさん達は選挙に勝つためには大嫌いな石破さんを選んだ位だから、立候補者の政策いかんにかかわらず人気がある人を選ぶい違いありません。

ウーン、いっそのこと人気投票にしたらどう?

乞う、ご期待!!!

了見狭いねェ・・・

原爆の日の8月6日、石破総理は広島市で開催された平和記念式典に就任後初めて出席し、その挨拶で被爆した歌人正田篠枝さんの代表作「太き骨は先生ならむ そのそばに 小さきあたまの骨 あつまれり」を引いて追悼したそうである。

私、平和記念式典のTV中継は見ていなかったが、それを見ていた知人の女性が、石破首相がこの句を引用した時、ウルッとしたそうである。彼女はアンチ自民党だが、心をウルッとさせたって聞いて、私、大ビックリ!!!

大体、どんな大会でも総理の挨拶っていうのは、頭脳明晰なエライ人が建前論に基づき書いた無味乾燥な原稿を読むものと思っているが・・・ン? 失礼、エート、たまには自分の考えも入れて添削したうえで読むものと思っているが・・・石破総理の引用した句は、どうも自分の心に感じた想いを詠んだものと思われた。

私、とっても年寄りだから感受性も鈍くなりウルッとはしなかったけれど、チョッピリ感心した次第である。

村山内閣が1995年の戦後50年終戦記念日に首相談話を出して以来、60年に小泉内閣、70年には安倍内閣で首相談話が出されている。
特に安倍総理の70年談話は、将来の世代に「謝罪を続ける宿命を背負わせてはならない」と、謝罪に終止符を打つ未来志向の内容ともなっていて、歴史認識を巡るこれまでの首相談話の集大成となっているそうである。

シンガポールでは、日本がシンガポールを占領した2月12日を「総国防の日」として、夕方にサイレンが全土に鳴り響くとのこと。
「もし、許しを求められれば許すべきだか、決して忘れてはならない」として定められたそうである。これは恨み続けるという意味ではなく、再び許す必要がないように記憶するためとも言われている。

今年は戦後80年の節目の年。てっきり石破首相談話が出されるかと思っていたら「首相談話は、集大成となっている70年の安倍談話で打ち止め」と決定。石破総理は出す必要ないとなって8月15日の首相談話はスルー。

石破総理は、ニッポン国で一番エライ人である。その人が談話を出したいというのであれば、ダメという権限をもつ人はいないと思ったが、なにしろ「自民党の方針」と言われたら従うようになっているらしいから仕方あるまい。

しかし、自民党に従順な石破総理が、なんと今回は「首相談話がダメなら個人談話を出したい」と反抗。それもダメと脅されているらしいが、わがニッポン国には言論の自由はないのかしらん。自民党って了見狭いねエ・・・。

私、石破首相談話を聞きたかったのに・・・。

 

口にすることは出来ない

8月15日は敗戦記念日、ン? 訂正、終戦記念日。毎年、この日の「夢旅人」には、戦争や原爆にちなんだ記事を掲載している。

今年は戦後80年の節目の年とあって、多くの行事が開催されているが、北九州市立文学館でも「ペンと戦争ー火野葦平、林芙美子の場合」というタイトルで、戦時下の文学者の姿を見つめ直そうという特別企画展が開催された。

7月19日の開会式の案内状が届いたので、私、暑さにもめげずイソイソと参加。
開会式では、武内和久市長に続き今川英子文学館館長の挨拶、中村義雄市議会議長の来賓挨拶の後、テープカットがあって特別企画展がオープン。学芸員さんの説明を聞きながら見ることが出来た。ただ見るだけでなく説明付き。これって、参加者の特典。すこぶる素敵付。

特別企画展には、昭和12年(1937年)に中国に侵攻した日中戦争から始まり、太平洋戦争を経て昭和20年(1945年)の終戦にいたる8年間の戦争に、北九州市にゆかりのある作家、火野葦平と林芙美子が従軍作家として参加したそうである。
その時に書いた原稿や従軍日記に手紙、創作ノートのほかに出版された書籍など約170点もの資料が展示されていた。

美術館が開催する美術展と違って、文学館の企画展で対象とする資料は、広範囲にわたって限度がないと察するが、会場には「エッ、こんな資料も!」と思わせる展示がもり沢山!!!
「よくぞ集めた」と学芸員さんたちの努力に感じ入ってしまった。

この特別企画展開催にあたり「ペンと戦争」というタイトルでA4判の記念誌が発行されていた。
記念誌には、企画展で展示されている主な資料が写真でコメントをつけて掲載されており、時代背景の説明とあわせと読むと、企画展の全貌が分かる仕組みになっていた。
「忘れっポイ」のが私の特技だが、これ読むと「忘れっポイ」をポイすることが出来る。ウフフフ・・・。

私、昭和13年(1936年)生まれ、戦争の記憶などまったくない。この記念誌にコンパクトにまとめられた8年間の戦争の記録を読むと、断片的にしか知らなかった日中戦争と太平洋戦争の概要が分かったような気がした。その意味でも貴重な資料ともいえる。

開会式終了後、五味淵典嗣早稲田大学教授から「戦場を見つめるー火野葦平・林芙美子の日中戦争」と題しての開会記念講演が開かれた。
火野葦平の「麦と兵隊」、林芙美子の「私の従軍日記」、石川達三の「生きている兵隊」の作品の中に書かれた文章をスクリ-ンに写しだして、五味淵先生が朗読しながらの講話だった。

火野葦平は従軍作家である。だから書くにあたって軍部から「心に感じたことを書くのではなくて軍人の眼で書くと共に、日本軍が常勝で、中国軍は憎悪すべき相手として書き残虐な場面など書いてはならない」と指示されていたそうである。

それで、火野葦平の「麦と兵隊」でも出版にあたり検閲された結果、不適格と思われた27箇所が削除されており、その削除された箇所の中に3人の中国兵を斬首する箇所があったそうである。
しかし、「私は眼を反らした。私は悪魔にはなっていなかった。私はそれを知り、深く安堵した」という文章は、何故か残されていたとのこと。前の文章がカットされていたたため意味不明になってが、「戦争はダメ」という火野葦平の気持ちがこの文章で分かった気がした。

林芙美子はペン部隊の一員として上海に行き、無残に破壊された街を見て「私の従軍日記」の中で、
「石にしがみついても、敗残国になってはならない。絶対に戦争には勝たねばならぬ」と書いたそうである。
これは「戦争をしてはならぬ」と書きたかったが、「戦争に勝つ」という表現しか出来なかった林芙美子の心を推しはかることが出来るという五味淵先生のお話であった。

五味淵典嗣先生は「戦争はダメという自分の心を封印して、文章を綴らなければならなかった」という火野葦平と林芙美子気持ちが、制約された条件のなかでも察することが出来るとのお話であった。
書かれなかったことに真実があったのである。

ペン部隊として、戦地に派遣された石川達三の「生きている兵隊」も紹介された。
「自覚がなくても、残忍な行為が出来る。普段の日常であったら、考えもしなかったようなことが出来る。それが戦場」と書き、火野葦平や林芙美子と違い、小説とはいえ残酷で悲惨な戦場の様子をありのままに書いたため、発売と同時に発禁処分となったそうである。

最後に「火野葦平と林芙美子は〝上から見た戦場を書いた作家〟、石川達三は〝地べたから見た戦場を書いた作家〟」と話されて講話を終えました。

火野葦平は昭和35年(1937年)に自死。遺言はなかったので自死の理由はわからないとされている。
火野葦平は、従軍作家として戦争に加担したという自覚と、戦地で見聞きした行為に対して感じた心の重みに耐えかねて自死したに違いないと、この講話を聴いて思った次第である。

戦争が終わって出征していた父親や子供が帰還してきたが、戦場のことは決して口にすることはなかったと聞いている。「口にすることは出来ない」という心の闇は察してあまりある。
「戦争をしてはならないと」いうことを、身体で実感した兵士の想いを受け続いていかねばならぬと思う。

※ 掲載したポスターの写真は、左2人目から、林芙美子、片岡鉄平、久米正雄、火野葦平。