Rain

 梅雨。私は雨が嫌いである。特に雨に濡れるのが大嫌いである。
 何故って云うと、傘もささずに歩いていると、私のなけなしの髪の毛が、今は亡き落語家の柳家金語楼風になる。ン? 柳家金語楼風って何って? ウーン、そうか。若い人は知らないんだ、金語楼のハゲ具合。では、今風に言うと髪の毛がバーコード模様となる。
 これって、最低!!! 私は、毎朝「うっすらハゲ模様」の髪の毛を、フンワリ仕上げて「一見ハゲなし模様」にしようと、健気にもはかない努力を重ねているのに、雨に濡れるとフンワリがペチャンコ!!!
 なんと、見るも哀れなバーコード模様。だから、雨に濡れるのは大嫌い。
 と、云うと、誰もが同情の眼差しながら「ウン、納得」
 だから勿論、雨降る梅雨も大嫌いであるのは云うまでもない。
 ところで、この大嫌いな梅雨という言葉は、「梅の熟す時期の雨」からきているらしいが、梅は、作家林望によると百樹中の聖賢で、梅には八徳あるそうである。それによれば

1 衆樹に先駆けて咲き、目を楽しませる。
2 芳香、能く鼻を楽しませる。
3 風姿美しく、庭を飾るに宣し。
4 鶯鳥囀々、耳を楽しませる。
5 実り豊かに、口を楽しませる。
6 梅干となりては、体を養う。
7 魚と共に煮る時は、その毒を消して生臭さを去る。
8 核仁また良薬にして煩熱を除き目を明らかにす。 

 ウーン、梅が良いのはよく分かったけれど、この梅に雨が付くとロクでもない奴に変身する。
 そりゃまあ、昔、梅雨の雨はシトシト降って田やダムを潤わせ、恵みの雨となっていたけれど、最近は雨事情が変わってしまって、台風の雨と同じように、梅雨なのに見境もなくドカドカと雨が降る。
 おまけに、「All or Nothing」で、カラ梅雨か、ドカ梅雨。どうも、この地球という星は壊れかけているらしい。
 私は、雨に濡れるのは大嫌いだけれど、家の中で窓からシトシトと降る雨を、ウッスウラ・ボンヤリ・ホンワカと見るのは好きである。なんだか心静まる気がする。
 でも、シトシト雨が姿を消してしまい、ウッスウラ・ボンヤリ・ホンワカ時間がなくなってしまった。ところが、
 「雨の日には雨の歌」というキャチフレーズで「Rain song」というアルバムが発売されたのである。
 そらりゃ、何にもせずにウッスラ・ボンヤリ・ホンワカしてたら、うちのかみさんが
 「アホ化症候群が悪化した」と、危機感をつのらせるかもしれないが、音楽を聴きながらのウッスラ・ボンヤリ・ホンワカは、
 「アホ化症候群が良くなりつつある」という、美しき誤解が生じるかもしれぬ。
 そこで、さっそく「雨の日には雨の歌を」と、この「Rain song」を買ったのは云うまでもない。
 このアルバムには、昔懐かしい小林麻美の「雨音はショパンの調べ」や八神純子の「みずいろの雨」それに徳永英明の「レイニーブルー」など、雨にちなんだ曲ばかりCDの2枚組で30曲。
 このアルバムを聴くと、ほとんど恋に破れた曲ばかり。ハッピイなのは、さだまさしの「雨やどり」ぐらいである。どうも、恋は雨に弱いらしい。
 それで、今日も梅雨なのにドカドカ雨だけれど、鈴木祥子の「優しい雨」を聴いていると、シトシト雨の雰囲気がいっぱい。
 この曲は、わが愛する小泉今日子も歌っているけれど、アコーステック・ギターの弾き語りで歌う鈴木祥子の歌も、心に沁みるようでバーコード模様の髪の毛の悪夢も忘れてしまいそうである。
 ウーン、雨の日は雨の歌を聴くのが最高!!!

優しい雨   作詞 小泉今日子 : 作曲 鈴木祥子

心の隙間に 優しい雨が降る
疲れた背中をそっと湿らせてく
群れをなす魚たち
少し楽し気に
駅に向かって走ってく
こんなに普通の毎日の中で
出会ってしまった二人
降りしきる雨の中にすべてを流して
しまえたらいいけれど・・・

・・・ 以下 略 ・・・

心に虹を・・・

 梅雨の晴れ間に虹を見ました。
 ほんの束の間の虹でした。
 くっきりとすっきりと鮮やかに・・・・。
 Over The Rainbow、虹の彼方に青い鳥は飛んでいるので
 しょうか。
 心に虹をかけられるでしょうか。

     おぞね としこ

土砂降りの
雨がやんだら
東の空に
虹がかかった

紅色の
あじさいの茂みを
時が
静かに
静かに
過ぎて行く
ほんの小さな
わたしの愛よ
遠くはるかな
私の夢よ
いくたび
虹を見ただろう
いくたび
虹を見るだろう

小曽根俊子・・・1954年生まれ、2005年3月逝去。重度の
脳性麻痺に負けず愛に生きた車椅子の詩人。

“あばたもえくぼ”なんだけど・・・

 今日、15日は大安。そして6月はジューンブライド。
 ローマ神話で、結婚生活の守護神とされているジュピターの妻ジュノーの月が6月と云われていることから、6月に結婚する花嫁は幸せになれると伝説が生まれて・・・ウン、今日の結婚式場はきっと大入満員。
 と、思ったら大間違い。6月は雨が多くって”晴ればれ気分”にはほど遠く、曇りだったとしても心は”どんよりブルー気分”、おまけにむし暑くって”ジメジメ不快気分”・・・てな訳で
「ジューンブライドって格好いいこと云われても、やっぱ ヤメター」
 だから、人口動態統計で見ると、結婚する月は一番多いのが11月、次いで3月、10月の順らしい。
 かくして、夢を飾って生まれたカップルのそもそもの出会いというのは、国立社会保障・人口問題研究所の全国調査によると、
「友人や兄弟姉妹の紹介」が一番で、1982年以来トップだった
「職場結婚」は2位に転落したそうである。そして過去、ほとんどの割合を占めていた
「お見合い結婚」は、たったの6.2%で、いまや希少価値。ウーン、なるほどと納得。
 職場結婚なら、相手の良い所も悪い所もミエミエなので、結婚してイロイロあっても適当に折り合いを付けられるに違いない。だけど、友人や兄弟姉妹の紹介なら、ホッカホッカ恋愛中の”あばたもえくぼ”状態は、結婚したらやがては”えくぼもあばた”に大変貌する恐れがある。
「そうなると大変!!!」と思うかもしれないけれど、結婚しても依然として”あばたもえくぼ”状態が続いたら
「それも大変!!!」のようである。

問題は、妻がわたしを心から愛しているという点にある。・・・さらに云えば、愛しているだけでなく、尊敬もしている。わたしが利口で、有能で、性格的にも非の打ちどころがないと考えていて、つねに良き伴侶であろうと心がけている。それで、わたしは気が狂いそうになる。

パーネル・ホール作「探偵になりたい」より

蒼き馬に想いをのせて

 こう云ちゃあなんだが、侘びとか寂びの世界にエンのない私だけれど、1年に1回だけ、私は表千家のお師匠さんの自宅の庭に建てられた茶室で、茶道にのっとって抹茶を飲むことが出来るようになっている。
 ところが、茶道にのっとってやるのはお師匠さんだけで、お茶を頂く私は、なぜか茶道にのっとらずに飲んでもいいようになっている。
 だから、正座していて痺れが切れたらどうしようかとか、小さな茶菓子を二つに割って楚々と食べるなんて芸当は出来ないので一口でガブリと食べて良いのかとか、お茶碗を左に廻してから飲むのか右に廻してから飲むのか、それも何回廻したらいいのかとか、お茶を何回に分けて飲むべきかとか、ずずーと音を出して飲んでいいと聞いたことがあるがそれって無作法ではないかとか、お茶碗をシゲシゲ見て何と云って褒めたらいいのかとか、飲み終わってから云うセリフは「ご馳走さま」でいいのかとか、茶碗はそのまま返していいのかとか、人が飲んでいる時にペチャクチャ喋っていいのかとか、鼻が痒くなった時掻いてもいいのかとか・・・以下エンエンと続くが紙面の都合により略・・・などと悩まなくてよいのである。なんと、ステキなお茶会!!!
 このステキお茶会は、私が卒業した福岡県行橋市にある京都高校の同級生男性4人、女性4人で作っている「おちゃちゃの会」。
 この会の発起人は短歌『牙』の同人だった今は亡き安光隆子さん。
「あなた達、飲むといったらお酒ばかり。正式のお茶席でお抹茶、飲んだことないでしょ。イイ年をして、恥をかかないようにしてあげる」と云って、表千家のお茶の師範をしているやはり同級生の福田頴子さんに呼びかけて始まったものである。
 ところが、なんたって男性4人組は、粗野にして軽佻浮薄。そんなヤヤッコシイことが出来る訳がない。当然のことながら、恥のかきっ放しには慣れているので、作法を覚えるなんてムダな努力をするはずがない。
 かくして、お師匠の頴子さん、3回目のお茶会で
「まあ、おいしいお茶を飲んでもらって、お互いに楽しんで、心が通いあったらいいのよ」と優しいお言葉。かくして作法より無罪放免になった次第である。
 とは云うものの、お茶会の時は「草履」に履き替え「潜り」を潜って「路地」に入り「待合の腰掛」に座って案内を待ちそれから「飛石」を伝わって茶室の手前に置かれてある「つくばい」で手水を使い60センチ四方の小さな「にじり口」と称する入り口からようやく茶室に入る。この茶室に辿り着くまでの行程は、真っ直ぐ歩けば10m位だけれど、遠回りして行かねばならぬ。ヤレヤレなどと云ってはいけない。おいしいお茶にたどり着くためには、イロイロ努力せねばならぬ。
 茶室は、小さな障子窓があるだけ。明かりはそれだけだから、ボンヤリ薄暗い。
「昔の人はさすがにエライ。女性がみんな美人に見える仕掛けになっている」と言ったら、師匠曰く
「茶事に集中出来るように、うす暗くしてあるの」
 フーン、そうか。ものは云いようである。昔の人はやっぱりエライ。

 今年の「おちゃちゃの会」は5月19日、14時から。
 茶室に入ると、まず目に入るのは床の間に飾ってある『古風今情』の掛け軸。
「今日の掛け軸は、亡くなった隆子さんを偲んで選んだの。分かりやすい言葉でしょ」と師匠は云うけれど、こちとら、なんたって粗野にして軽佻浮薄。
「?」と思ったけれど、分かった振りをするのは得意だから
「うん、なるほど」と一見マジメ顔で頷く。ダテに年をとった訳ではない。
 それからお茶会。おいしい抹茶を頂く。師匠は侘びとか寂びを漂わせ「表千家の作法」にのっとり、私は詫びとか恥を漂わせ「そうはち家の作法」にのっとりお茶を頂く。
 ウン、ウマイ!!! と、云う訳で 
「もう一杯」と頂く。おまけに、私は生まれながらのケチときているので
「もう一杯」と頂く。それに、2度あることは3度あるという諺に従って
「もう一杯」と頂く。なんとステキなお茶会!!!
 かくして、2時に始まったお茶会は片手落ちの作法にのっとり、スムーズに終了。たちまち室町時代から現代にタイムスリップして、それからは恒例の大パーティ。
 師匠の頴子さんとは同級生だが、そのダンナも同級生である。二人は博多に住んでいるので、そのダンナが博多の有名店を駆け巡って調達してきたナントカワイン2本にカントカチーズ3種類にお洒落な名前が付けられた5種類のフランスパン、後は女性組手作りのオードブルがジャジャーンと登場。
 二人以外は北九州の田舎ッペだから、それっとばかり飲みながら食べながらワイワイガヤガヤワイワイガヤガヤ。
 そのワイガヤの中で、
「あのA先生、昨年亡くなったの。私達と10歳位しか違わないはずなのに、もう亡くなられたんだって・・・。おかわいそう」と、話したものだから、一同シュンとなって
「ウン、気の毒だなあ。いい先生だったのに・・・」と、先生の思い出に耽っていると
「今の話だけれど、私達だって来年はもう70歳でしょ。だからA先生が亡くなったのは80歳。早く亡くなられた訳じゃないよ」
「エッツ、僕たち、もうそんな年なんだ」と愕然。
 どうも「おちゃちゃの会」のメンバーは、年寄りの自覚症状がまったくなく、60歳位から年を取るのを忘れているみたいである。だから、ワイワイガヤガヤワイワイガヤガヤで盛り上がり、気がついたらなんと21時。
 エンエン7時間に亘る大パーテイを繰リ広げたものの、ワインは2本だけだから酔っ払った訳でもないのに、それに政治とか文学とか人生とか高尚な話をした訳でもないのに、7時間も何を話したのか一向に分からない。
 どうも、ワイワイガヤガヤのムダ話しをエンエン7時間もしたみたいだが、これって、誰にも出来る芸当ではないから、
「アホみたい」ではなく、ひょっとしたら
「エライ」のじゃなかろうかと思って、帰ってからうちのかみさんに話すと
「そうね、アホみたいじゃなくって、アホまるだし」だって・・・。
ウーン、がっかり!!!
 ところで、このお茶会は、この会の発起人で2003年5月に早すぎる死を迎えた安光隆子さんを偲ぶ会もかねている。そこで、今年は彼女の遺歌集「蒼馬」の中から、自分の好きな歌を3首選んできてみんなに披露することとなった。
 この会のメンバーはワイワイガヤガヤのムダ話しは得意だけれど、短歌の世界とはほど遠い人間ばかりである。だから、上手だとか下手とか分かる訳はないけれど、好きな歌というのはある。
 そこで、着物がよく似合ってウイットとユーモアに富み、きりりとした感性を持っていた彼女に想いをのせて、メンバーが選んだ「私の好きな歌」の中から10首を選び披露したい。
 なお、最初の一首は、彼女が生前「一番好き」と云っていた歌であり、遺稿集「蒼馬」の題名もこの短歌から取っている。

安光隆子さんの歌、大好きです

父の乗る蒼き馬はも海に降る雪のはたてに消えてゆきたり

あの人は切ってもいいと決めて立つ踏切の鐘鳴りやまぬ前

三十五年の刻経て君に逢しかど変若(オ)ちかえるべき術のあらなく

十六の恋を包みし花柄の浴衣を出せど行く所なし

火は風を抱き込みながら捲き上がり野焼の山を駆けのぼりゆく

手を垂れてくちづけ受けし古里の櫟林に雪は降りいん

論争の場に臨まんと締め上げし帯の横面叩きて出ずる

お種柿一つ垂らして柿の木は入陽に赤く染まりて立てリ

長雨の上りし後の向山にああ追伸の如き虹立つ

古里に置き忘れたる恋ひとつ狐花咲く畦のあたりか

しゃっきりと筑前博多帯締めて逢いにもゆかな病癒えなば

 なお、この夢旅人2005年10月1日号のコラム「逝く夏の・・・」も、彼女の短歌を引用して書きました。是非、読んでください。

※ 安光隆子・・・1939年生まれ、2003年5月逝去。福岡県立京都高校卒。『牙』同人。

ラブレター

 5月23日はラブレターの日。何故って云うと、こい(5)ふみ(23)だって・・・・。
 だけど、今やメール時代。手紙を書くなんてメンドウなことはやらなくなってしまったようである。だから、メールで
『好き、好き、好きの大好き(^。^)』か
『嫌い!嫌い!!嫌い!!!の大嫌い!!!!』かで終わり。
 なんとも素っ気ない話しである。
 むかし昔、渋谷に『恋文横丁』があって、パット・ブーンの『砂に書いたラブレター』やエルヴィスの『心のとどかぬラブレター』がラジオから流れていた古き良き時代に
「恋しい恋しいナントカさま」と書くところを「変しい変しいナントカさま」と、間違って書いたあの遠い日が懐かしい。
 万年筆が骨董的存在になり、手紙は手書きからプリントアウトされた字に変わってしまったけれど、印刷されたラブレターを読んだって小説を読むみたいなものであろう。
 私などは、まづ顔に惚れ目に惚れ唇に惚れ声に惚れオッパイに惚れ脚に惚れ・・・以下エンエンと続くので略・・・と、惚れる所は数々あって、どれかその一つにでも該当すれば好きになることになっているけれど、
「字に惚れて」というのもそのひとつである。だから、きれいな字で書かれた手紙など貰うと、顔や目や唇や声やオッパイや脚・・・以下エンエンと続くので略・・・に惚れる所がなくっても、
「好き、好き、大好き」となって・・・・
 エ? 何? 「それって、女であれば見境もなく好きになるってこと? 浮気っぽいんだ、ソーハチさん」だって・・・。
 ウーン、そうじゃないんだって!!! エーット、だから、ラブレターはやはり万年筆の手書きの方が効果があると云いたいのである。
 そして、5月23日は『ラブレターの日』
 一方通行の片思いの恋をしている人いれば、メールではなく手紙を書いてみませんか。
『好き、好き、好きの大好き(^。^)』のメールよりも、手紙だったら、さまよえる心に橋が架けられるかもしれません。
 もし、恋を終わらせようとしている人いれば、メールではなく手紙を書いてみませんか。
 『嫌い!嫌い!!嫌い!!!の大嫌い!!!!』のメールよりも、手紙だったら、悲しみも純化され素敵な思い出だけを、心に残こすことが出来るかもしれません。

手紙    川崎 洋

もしも
愛という言葉がなかったら
もしも
好きと言う言葉がなかったら
世界は
どんなに寂しいだろう
でも
悲しみも
嘆きも
その分
減るかもしれない
きょう
郵便受けが鳴って
誰かへ
一通の
恋の終わりが届けられる