「タチションベン」に願いをこめて

 7月7日は七夕。遠距離恋愛の元祖である織姫と彦星が1年に1度出会う日。でも、残念、あいにくと雲模様。天の川など見える訳がない。
 松尾芭蕉が天の川が増水して逢えなくなった二人のことを、逢えたら有頂天になっただろうにと、有頂天に引っ掛けて

七夕の逢わぬ心や雨中天

と詠んだが、そのとおりの七夕になってしまった。
 今はお上品な時代になったので「タチションベン」などと言うと、顰蹙を買いそうだが、我慢に我慢を重ねたうえでジャーと実行する「タチションベン」の快感は、男性のみが得られる感覚であろう。ホント、「良くぞ男に生まれけり」と実感する瞬間である。
 まして、天の川を見上げながらする「タチションベン」ほど、気宇壮大なものはない。まるで、天の川にむかって「タチションベン」をしている心地がする。
 しかし、軽犯罪法第1条の26に
「街路及び公園の他公衆の集合する場所でたんつばを吐き、又は大小便をし若しくはこれをさせた者」は拘留又は科料に処するとある。軽犯罪法は刑法であるから「タチションベン」をした人又はさせた人は、前科のある犯罪者となる。
 だけど、である。犬を散歩させている人を見ると、犬の糞は取っていくが、犬のオシッコは拭き取ったりせづ、させ放題。オマワリさんが見ていてもそしらぬ顔である。しかし、人間の「タチションベン」はダメで犬はいいと言うのは、法の平等の精神に反するのではないか。
 だから、私は気宇壮大な「タチションベン」をしている時に、オマワリさんに捕まっても、この高尚なる理論構成のもと、トクトクと説明すれば無罪放免になると信じている。だから、遠慮なくジャーとやる。(ただし、女性が横にいる場合を除く)

 ところで、私が勤めている北九州市の「南丘市民センター」は、小さな川だけど、ホタルで有名な小熊野川という川の横にある。そこで、「小熊野川を天の川に」のキャチフレーズのもと、市民センターを利用している人や子供たちに、願い事を書いてもらい、七夕だから7本の七夕飾りをすることになった。
 そこで、私も短冊に願い事を書くことにした。大人になって七夕に短冊を書くなんて風流なことをするのは初めてである。願い事なら、掌からこぼれるほどある。しかし、厳選のうえ、格調高く七夕にちなんで7つの願い事を書くことにした。
「うっすらハゲ模様がすっかりハゲ模様になりませんように」
「UFOに遭遇しますように」
「7番目の初恋の君に再会しますように」
「昨日の晩ごはんのおかずをスラスラと女房に言えますように」
「夜、オシッコに行くのは1回だけですみますように」
「美人でないフツーの女性でも、顔と名前が一致しますように」
「家の用事は“アソコ”と“アレ”と“コレ”だけで全て事たりますように」
 私、67歳。これ全て、切実な願い事ばかりである。だから、有言実行の私は、この7つの願いをかけながら天の川を見上げ気宇壮大な「タチションベン」をしたのは言うまでもない。それも、2回も‥‥。
 だって、たった1回の「タチションベン」では、7つもの願い、となえられないでしょ。

アトムよ、再び‥‥

 第9回手塚治虫文化賞のマンガ大賞に浦沢直樹の「PLUTO」が選ばれたが、今回の受賞作は「鉄腕アトム」の「地上最大のロボット」をリメイクしたものだそうである。 
 こう云ちゃなんだが、私はむかし昔その昔からアトムファンである。私の息子を膝に抱えてTVのアトムを見たのがウンのつき。子供はさっさとアトムを卒業してしまったが、私だけが落ちこぼれ今だに卒業できないでいる。
 そういう訳で、あまり大きな声では言えないが、私の愛蔵書の中には、1975年に朝日ソノラマから発行された「鉄腕アトム全集21巻」と1977年に講談社から発行された「手塚治虫全集100巻」がある。
 「地上最大のロボット」は、「鉄腕アトム全集」第3巻に載っていたが、昨日の晩ごはんのおかずも覚えていないほど落ちぶれてしまっている私にとって、30年前に読んだマンガのストーリイを思い出せと言っても、夢のまた夢である。
 それで、さっそく原作を読んで、
「ウーン、古くて新しい。ヤッパ、手塚治虫!!!」と改めてファン熱をアップ。これを浦沢直樹がどう料理したのかと,「?」付で「PLUTO」を買った次第である。
 ところが、驚いたのなんのって、リメイクしたものと云えなくはないけれど、まったく新しいマンガに変身!!!
 エライものである。「PLUTO」はまだ2巻しか出版されていないけれど「乞う、ご期待」感がいっぱい。
 私がアトムが好きなのは、ストーリー性が高いのと、ほのぼのとしたユーモア、それと夢あふれるところにある。一方、浦沢作品は、アトムよりストーリィテーリングは長けているかもしれないけれど、ユーモアに欠ける。チョッピリ残念。
 手塚治虫が亡くなったのは1989年2月。その年には「手塚治虫夢ワールド」という展覧会が開かれ、最近でも2003年に展覧会が開かれているが、アニメを最後に見たのは、亡くなった年の7月に東京・高田馬場にある映画館「ATCミニ・シアター」
 この映画館は、「鉄腕アトム全作品一挙上映会」と称して1963年からTVでスタートしたモノクロ版のアニメ193話の内、残存している181話を1日に4話、1ヶ月半かけて連続上映した所である。
 映画館と言ってもは小さな小屋みたいな所で、椅子はなく板張りである。そこに30人位の人が座り込んで見る。でも、見終わったら拍手がいっぱい。私が映画館でスタンティングオベレーションをやったのは、ここが最初で最後。
 アトムが活躍していたあの時代、アトムが言っていた「愛と平和と正義」は、共感をもって受け入れられていたし、そして、それがアトムの魅力のひとつともなっていたのである。
 しかし、アトムが宇宙の彼方に消え、それと共に「愛と平和と正義」も消えてしまった。今の時代、「愛と平和と正義」と言っても、そらぞらしく空しく聞こえるばかりである。
 アトムを過去の遺物としないように、その意味から言っても、浦沢直樹の「PLUTO」は意義があるといえるかもしれない。

これって魔法!!!

 『目からウロコ』とは、正にこのことである。

 あまり大きい声で言えないけれど、この世は分からないことがいっぱいある。
 人は精子と卵子が結びついて出来るというけれど、精子の長さって0.06ミリ。それから、どうして心臓やいろいろな働きを持つ内臓、血液、骨が出来るのか分からない。全部完成した後も髪の毛や爪が生えてくるが、何を原料にしてどうやって作くるのか分からない。花粉症で悩まされた憎いアンチクショウの大量の鼻水や涙は、どこから絞り出されてくるのだろう。

 TVだって、どうして写るのか分からない。映像や声が空を飛んで来るみたいであるが、空を見ても何も見えないし音も聞こえない。いっぱいウジャウジャと空中を飛び回っている映像やその色や声が、どうしてごちゃまぜにならずに、TVの画面から出てくるのだろう。おまけに、不思議なことにはぴったり口の動きに合わせて言葉も出てくる。
 電話だってそうである。ニューヨークに電話したとき、ペラペラと英語で‥‥はなく、日本語でしゃべったけれど、まるで隣の家から電話しているように、たちまち声が届く。ダイヤルしただけで太平洋をスタコラサと渡り、何億本とあるアメリカ大陸の電話線をかいくぐり、かけた家の電話に辿り着くなんてことは、とてもじゃないが、エンエンと時間がかかりそうなのに、それが瞬時に出来るなんて、どうして?
 携帯電話だってそうである。線もないのに、まして動いている相手に、空中は携帯の声で満ち溢れているのに声が届く。それに「愛している」と言ったのが、どうして誰かが話した「あなたって嫌い」に取って変わったりしないのだろう。
 これは、ほんの数例であるが、それぞれの専門家に言わすれば、それなりの理屈があるらしい。しかし、ヘイへい凡人たる私にとってはチンプンカン、不可解の一語につきる。よって、この世は訳の分からないことに満ち溢れて、私は悩み多き一生を送くらざるを得ない。
 それなのに、誰も平気な顔をしてノホホンと生きておられるものだと感心する。でも、そんなことで悩んでいるなんて言うと
「アホか」と言われそうだから、黙っている。
 ところがである。ハリー・ポッターの翻訳者であり出版元でもある松岡佑子さんの「夢と言葉と魔法を少し」と題した講演会の内容を読んだ時、この訳の分からないことだらけの悩みが一挙に解決したのである。
 作家C.W.ニコルが、ある時松岡裕子さんに
「魔法は本当にある」と言ったそうである。
「春になって川の水がゆるんで、カエルの卵がオタマジャクシになる。これは、魔法だよ。そして、そのオタマジャクシの尻尾が取れて、カエルになる。これも魔法だよ」と。

 ホント、『目からウロコ』である。私の訳の分からないことって「魔法なんだ」と思えばすべて解決する。
「目に見えないほどの精子から人間が出来る。これって魔法!」
「TVから動く絵や声か聞こえる。これって魔法!!」
「その他、アレコレ訳の分からない物がいっぱいあるけれど、これって魔法!!!」
 スッゴイ!!!!
 私はたちまち納得したが、彼女はこれを聞いて、
「自然を信じる心を持つということは、魔法を知るということなんだ」と思ったそうである。そして、幼い頃から自然に親しんでいた彼女は「その魔法のおかげでハリーポッターの版権を取ることが出来た」と。
 そう、魔法は夢の中だけのことではないのである。あなたも自然に親しみ、魔法を信じる心を持つことが出来たら、魔法のおかげで夢が叶うかも‥‥。

4.25人心事件 Part2

 私は、ミーハー的音楽大好き人間である。そもそもの馴れそめは、1954年の映画「暴力教室」の主題歌で、ビル・ヘンリーとコメッツが歌う「ロック・アラウンド・ザ・クロック」を聴いたとき。
 「これは何だ!!!」と青春なりたてホヤホヤの私は、この曲でたちまちミーハー音楽派に開眼。以来、アメリカンポップスからエルビスに、それからビートルズをチョッピリ聞きかじってモダンジャズに変身。
 しかし、なぜかカタカナ語の音楽に飽きて、フォークからニュミージックと心変わりしたところが、そこでストップ。どうも、中年となり頭の鈍化に伴い、歌への遍歴も止まってしまったらしい。今では、オールディーズ愛好家として足跡を残すのみである。
 そこで、今でも大好きなニューミュージックは、陽水を筆頭に、ミーンナ好きだけれど、歌詞の語彙の豊かさについては、さだまさしの右に出るものはないと思っている。
 そのさだまさしが、5月28日朝日新聞朝刊の「さだまさしからあなたへ」というコラム欄に『哀しい大人 反面教師に未来を作って』と題してエッセイを載せた。
 さだまさし、53歳。私に比べて13歳も若いのに、彼の歌詞、メロディラインには心に触れるものが多く、今度新聞に掲載されたコラムにも
「ウーン、実感!!!」と心動かされてしまった。
 と言うのは、私も
「こんな時代に誰がした!!!」ではなく
「こんな時代に俺がした!!!」と内心忸怩たる思いをしていたのである。そこで、まだ読んでいない方のために、少し長いが彼のメッセージをここで紹介したい。
 こんな情けない大人たちに育てられた若き君の無念を思うとき僕は絶句する。
‥‥カラオケやヨン様に夢中で家庭を置き去りにしたかのようなオバサンたちも、若き日は未来を夢見、子育てに、理想の家庭を作るために、と努力した。無念にも世の中の壁に打ち砕かれ、志を失ったり諦めたりしてしまったが、かっては君たちと同じように夢を抱いていた。
 一方、粗大ゴミ扱いのオジサンたちだって、かって勇敢に国の不正義と戦おうとした人も多く、その敗北感や挫折感から自信を失い人生に迷った。そして虚脱感と虚無感と戦い、そこから抜け出すために仕事に命を捧げた。だがバルプが弾け、「終身雇用」「年功序列」という「信仰」まで奪われた。
 こうして、いつの間にか、恥や礼儀を何処かに置き忘れたように見えるオバサンたちと、不完全燃焼のまま夢や情熱をなくしたように見えるオジサンたちがこの国の最多数派となった。
 かくして日本は世界で有数の幼稚で、恥知らずで、軽薄で、不人情で正義と夢のない国になった。
 これを率直に詫びて、お願いする。私たちと同じ轍を踏まぬように生き抜いて欲しい。今の大人たちとすべて反対のことをすればよい。難しくとも、だ。
 よく人の話を聞き、人と話すこと。「国とは国語なり」だ。友人を大切にし、礼節を重んじ、学歴を盲信せず、きちんと人の心を見つめ、年寄りを大切にし、子供を守り、男女は互いを尊重し、譲り合い、愛し合う。
 諍う時でも決して暴力に頼らず、相手の身になって考え、夢を捨てず、いつも笑顔を絶やさず、力を惜しまない。これだけのことで君の未来は強く、大きく、明るく拓けるだろう。
 挫けそうになった時こそ私たちを思い出してほしい。私たちの後悔を君に味あわせたくない。以上、切実に膝を折って若き君にこいねがうばかりである。
 お願いだ。お願いだ。お願いだ。

4.25人心事件

 パンパカパーン!!! 花火がドーンパチパチ。
 だって、5月15日は不動産コンサルタント開業1周年記念日。お祝いです。
「カンパーイ!!!」と一人で盛り上がっています。
 ウーン、でもコンサルタント業はいまいち。だけど、夢旅人はあっちフラフラこっちフラフラと道草ばかりだけど、元気に旅を重ねています。あなたの心に届いたら、やさしく迎えてやってください。
 4月25日、JR福知山線脱線事故。天災は運が悪かったとあきらめることも出来る。しかし、人災は申し訳ないではすまされない。亡くなった方の「どうして」という無念な思い、遺族の方々の「命を返してくれ」という言葉の重みは、はかることが出来ない。
 どうして、運転手は1分30秒の遅れを取り戻すことだけしか、頭に浮かばなかったのか、私には分からない。
 どうして、乗り合わせていた2人のJR社員が救助活動をしなかったのか、私には分からない。 
 どうして、あの夜、多くの人たちが少しでも生存者がいるようにと、祈る気持ちでTVを見守っていたのに、JR社員には「喪に服する」という気さえ起こらなかったのか、私には分からない。
 JRの人の心は壊れかけているのではないかと思う。しかし、JRを非難することはたやすいが、壊れかけているのはJRだけだろうか。今は、親が子を殺し、子が親を殺し、人が意味もなく子供を殺し、通りすがりの人を殺す。
 そして、私もこの壊れかけた世の中を作っている一人である。
 他人がどうなろうと、自分さえ良ければかまわないという考えを持たなかったであろうか。高速道路で制限速度をオーバーして走ったことはなかっただろうか。それ等のことが当たり前の社会になった時、JRのような会社が生まれ、その空気の中で仕事をせざるを得ない運転手が事故を起こしてしまった。
 だから、この事故は一運転手・JRが引き起こしたものではなく、人の心が壊れかけた今の時代が引き起こした事故「人心事故」ではないか。
 原因が追究され、それにより対策が講じられ、「もう2度と引き起こしません」と心に誓って1件落着するのが事故というものである。しかし、今を生きる私たち人の心が引き起こした「人心事故」であるとすれば、過去の大事故と異なって、今回は1件落着とさせてはいけない。

 そういう意味では、「もう2度と引き起こしません」で終わらせる事故ではなく、アメリカでの「9.11テロ事件」と同じように、「決して忘れません」と誓う「4.25人心事件」と言うべきであろう。
 だが、しばらくたつと人の口にものぼらなくなり、年末の10大ニュースに取り上げられる位で、2~3年もたつと風化して2005年の出来事に一つになるだけであろう。
 だが、決して忘れてはならない。私たちは、この事件を契機に時代のあり方を見直し、「どうして?」と心に問わなければならない事件など、なくなるような時代にしなければならない。そして壊れた心を取り戻した時こそ「1件落着」となるのであろう。
 詩人谷川俊太郎が1962年~63年にかけて機知と風刺にとんだ詩「落首九十九」を「週間朝日」に掲載した。その中に「事件」という詩がある。私は、今回初めて最終行に書かれた意味を理解できたように思う。

事  件         谷川俊太郎

事件だ!
記者は報道する
評論家は分析する
一言居士は批判する
無関係な人は興奮する
すべての人が話題にする
だが死者だけが黙っている―――
やがて一言居士は忘れる
評論家も記者も忘れる
すべての人が忘れる
事件を忘れる
死を忘れる
忘れることは事件にはならない