夫婦ってタイヘン!!!

 10月はハッピーウエデング。うまくいけば死ぬまで一緒。そこで、これは夫婦の一生についてのオハナシです。

20代の結婚‥‥それは愛。愛とはすべてが美化され、美しくお互いを引きつけあう。
 30代になると子供によって夫婦は結びあわされ平和を保ち、愛を確認しあう。
 人間は愚かだから、40代になって夫婦であることを守るために努力するようになる。あらゆる意味のお互いの努力が実って、そのとき結婚は持続する。
 50代になってそろそろむずかしくなってきたカップルは、それぞれの立場で我が生まれ、それを思いやり忍耐して50代をすごし、子供たちの成長を見守っている。
 60代になるとあきらめの境地に達し、他に喜びを見つけ、個々の生き方を考えるカップルもある。
 70代になると、いい結婚をしたとお互いに感謝しあうようになるし、そうでない人は憎悪の念を持ったりする。
 また80代になるとすばらしい結婚をした人はお互い神様になり、まずい場合は男と女の化石になってしまう

――村田昭二「人心の時代」から

 ウーン 実感。夫婦をするって大変なコトなんですね。あなたはどのレベル?
 お互い化石にならないようにしましょうね。

夏の終わり

 夏が終わった。オリンピックとテロと猛暑と台風に水害。この星では、イイこと少なくてワルイことあふれんばかりの夏となった。
 どうも、この星を作った神様は、地球人に
「こんなはずではなかったのに!!!」とお灸をすえているに違いない。
 そして、ニッポンも今年の夏は、アツくってあつくって暑くって、ウン、何が何でもあつーい、 夏いっぱいの夏。
 でも、冷夏とか暖冬の方が過ごしやすいなんて云う人もいるが、夏は夏らしく冬は冬らしく、四季のけじめは、はっきりしていた方がいい。
 そして、暑さを逃れて海や山に人がいっぱい。そこで、素敵に夢がかなった人もいるだろうけれど、夢が破れた人もいるにちがいない。
 でも、短歌「塔」の歌人・栗木京子さんの歌に

観覧車 回れよ回れ 思い出は 君には一日 我には一生

というのがある。この歌は
「今日の一日は、あたにとってはその日かぎりの想い出かもしれないが、自分にとっては一生の想い出となるでしょう。でも、それはそれでいいんです」と言っているのである。切ない恋であるが、決して彼女は嘆いているわけではない。
 いいことばかりの人生なんてありえない。でも、この歌のようにONE WAYの恋であっても、それを哀しみとしないで心のアルバムの片隅にでも張っておけるような気持ちを持つことが出来たら、悪いことばかりの人生なんて、これもありえないのである。 
 ウン、僕はきっとそれが出来ると思うから、誰か一緒に観覧車に乗らない?

ああ オリンピック!!!

 オリンピックが終わった。
 私は根っからのスポーツ音痴である。自慢じゃないが、腕っぷしの弱いことにかけては、決して誰にも引けをとらない。子供の頃、体育の時間に懸垂というのがあったが、私は鉄棒にブラーーンとぶら下がっているだけである。1回も鉄棒から上に顔が上がったことがない。
 野球もやったことがあるが、何故かボールはいつもバットを避けて飛んくる。守ってもボールが飛んできたら鉄砲の弾のごとく見えて、本能的に身の危険を感じ逃げざるを得ない。
 長じて、大人になり動かない球なら当たるだろうとゴルフに挑戦したものの、球は地球を転がるばかりである。空を飛んでくれた試しがない。
 かくなるうえは、ゲートボールなら名人級になれるだろうと信じているが、まだ誰も誘ってくれない。残念至極である。しかし、これまでの傾向から考察すると、ゲートボールをしたら、今度は反対に球が空を飛ぶやもしれぬ。
 かかる深刻な事情を抱えているから、スポーツは見るのも得意ではない。ただ、我が家は先祖代々由緒正しいジャイアンツフアンだから、ジャイアンツが出場する野球だけは見るものの、他のスポーツ番組など見たこともない。
 だから、オリンピックなんて筋肉ムキムキマンのよその世界の出来事と思っていたが、新聞もTVもオリンピック一色である。まるで、オリンピックを見ていないと日本国民でないような気がする。かくして、私も一夜づけの「オリンピック見る!見る!!」人間となった訳であるが、いやもう、ビックリしたのなんのって
「ウーン、スゲー !!!」と唸ってしまった。
 オリンピックの選手は、力と技に秀でていればいいのかと思っていたが、そうではなかったのである。試合に勝つ前に、まず自分に勝たねばならぬ。
 私のようにフツーの人生を送くっているだけの人間でも、その中で自分に勝つということがどんなに難しいか、よく理解できる。
「マッ いいか」と、ほどほどの所で自分に妥協するということは、自分に負けたということである。こんな簡単なことはない。私の負け数など、両手両足の指を総動員して数えても足りない位である。
 だから、スポーツの世界で自分に勝つということが、どんなに過酷で厳しいものか、私の想像を絶するのである。それを乗り越えてきたからこそ
「勝って涙、負けて涙、見て涙」となるのであろう。ジャイアンツが負けて
「こんチクショウ。ホリウチのアホ!!!ーーン?、訂正、特に名を秘す人のアホ!!!」とやけくそに叫ぶのとは、エライ違いである。
 かくして、多くの人にいろいろな想いを残してオリンピックは終わった。
 ウン、今からはスポーツ見るのを得意としよう。

「1本の鉛筆」から

 8月15日はお盆。そして終戦記念日。いずれも亡くなった人を弔う日である。
 平和を願い戦争反対が声高らかに叫ばれるのも、この日である。この日、集会を開いたり街を行進して反戦のメッセージがTVから伝えられてくる。
 でも、これって声高らかに言われなっくても
「平和反対。戦争賛成」などと思っている人なんていゃあしない。
 だから、セレモニー化しパターン化たいわゆる「運動」を見たり聞いたりしても
「ホント おっしゃるとおりデス」と感服し納得するものの、それに心を動かされることは少ない。
 それより私は、吉永小百合の「原爆詩」の朗読や森山良子の「さとうきび畑」の歌を聴いたときの方が、
「ウーン 戦争って イヤだ!!!!」という思いを強くするのである。
 この二つはよく知られていることだが、私が心を動かされものが、もうひとつある。それは美空ひばりが歌った反戦歌「1本の鉛筆」であうる。
「エッ! 美空ひばりが反戦歌?」 と思われるかもしれないが、ひばりはこの歌をとっても大切にしていたという。
 私がこの歌を初めて聴いたのは、私が1992年大阪のIMPホールで開かれた「第6回消しゴムコンサート」を聴きに行った時である。このコンサートは
「この世になかったらいいなと願うものを、それぞれ手に持った意識の消しゴムでゴシゴシ消してしまおう」という趣旨で湯川れい子が主催したイベントである。
 この日は「明日からでは遅すぎる」というテーマでパネルディスカッション、次に幾つかのグループのアコースイックコンサートがあり、その中で、たしかEPOだったと思うがこの歌を歌い、それを聴いて私はホロホロと心に涙!!!してしまった。
 そしてその時、この歌は、美空ひばりが1974年第1回広島平和音楽祭で歌ったと聞いてびっくりしたものである。私は知らなかったが、以来、多くの歌手が反戦歌として歌っているそうである。
 平和音楽祭で美空ひばりが歌うために作られたこの歌は、作詞が松山善三、作曲は佐藤勝。
 私は 演歌や歌謡曲をあまり聴くほうではないし、ひばりのファンでもない。でも、その後、TVで何度か美空ひばりがこの曲を歌っているのを聞いて、最初に聴いたとき以上に、ホロホロのホロホロのホロホロと心に涙した次第である。
 この曲は、美空ひばりのアルバムの中に収録されているが、インターネットで「広島平和音楽祭」を検索すると、歌詞カードとともに、メロデーが流れるようになっている。
 この歌詞は次の通りであるが、詩だけではこの歌の良さは分からない。ひばりの声をとおすと、この歌の持つ重みが伝わってくる。戦争反対と声高らかに叫ぶ訳ではないが、戦争はイヤだという切ない彼女の訴えが心をふるわし、伝わってくるのである。
 せめてこのメロデーを聴きながら、この詩を口づさんでいただけたらと思う。

1本の鉛筆

1 
あなたに 聞いてもらいたい あなたに 読んでもらいたい
あなたに 歌ってもらいたい あなたに 信じてもらいたい
一本の鉛筆があれば     私は あなたへの愛を書く
一本の鉛筆があれば     戦争はいやだと 私は書く 

あなたに 愛をおくりたい   あなたに 夢をおくりたい
あなたに 春をおくりたい   あなたに 世界をおくりたい
一枚のザラ紙があれば    私は 子供が欲しいと書く
一枚のザラ紙があれば    あなたを帰してと 私は書く
一本の鉛筆があれば     八月六日の朝と書く
一本の鉛筆があれば     人間のいのちと 私は書く

夏だ ビールだ ‐‐‐ なら良いのだけれど

 夏が来た!!! と喜ぶのは若い人達である。燃えるような夏を待ち焦がれていたあの頃はとうに過ぎ去り、夏になったばかりなのに、秋が恋しく思える年代になってしまった。
 それに 夏といえばビールで乾杯!!! ということになる訳だが、私はまるでアルコールに弱く、ビールはグラス半分が許容量。ビールなんて飲めばまるでせんじ薬。日本酒は腐った水を飲むようで匂いを嗅いだだけでムットするし、ウイスキイはピリピリ唐辛子入りの水。
 大体、ビールのTVコマーシャルを見ると
「コクがあってキレがある」なんて叫んでいるが、私にはどういう意味なのかまったく理解できない。「コクとはどういう味か。キレとはどういうことをいうのか」と酒飲み人に聞いても、はなはだ合理的な説明に欠ける。きっと、酒飲み人はコマーシャルに惑わされて、ムードで飲んでいるにちがいない。
 それでも、許容量内に飲むのであれば、こんな私でも素敵気分となるのである。周りにいる女性はすべて美人となって、私の心はピンク色に染まり、たちまち世の中バラ色に輝いてみえる。 
 しかし、許容量以上に飲むと頭の中で除夜でもないのに鐘がなり、フラれたのでもないのに胸がムカつき、食べたばかりなのに折角のご馳走を戻してしまう。ケチな私としては残念やるかたない。
 そりゃ、私としては酔っ払って、あることないこと口走り、女性にセクハラまがいのことをして、翌日
「エッツ、そんなことしたの? まったく覚えていない。ごめん、ごめん。ウヒヒヒ」と笑って誤魔化してみたいと思っているが、世の中とかくままならぬ。
 でも、あやまってすむ位ならご愛嬌である。ジョークにいわく

「君はいっさい酒を飲まないそうだが、体質的に無理なのかね」
「いいえ。初めて飲んだとき、生涯の大失敗をしてしまいまして。それ以来、外では禁酒してるんです」
「ふーん、どんなへまをやったんだね?」
「酔いが醒めたら、結婚してたんですよ」